真実と事実のパラレル
「左右で襷を架ける感情ができるようになると、それを、二重人格性からきているのではないか?」
ということから、
「ドッペルゲンガー」
というものを意識させるということになるだろう。
世の中において、
「なるべくなら、ドッペルゲンガーを意識させたくない」
という、一種の、
「神の力」
というのが存在しているとすれば、
「二重人格性」
というものを、本人には悟らせたくないと考えるのではないだろうか?
それが、自分以外の人、つまりは、自分にかかわっている、
「奥さん」
であったり、
「不倫相手」
ということになる。
それでも、うまくやってこれたのは、
「それぞれの相手に、もう一人の自分を感じさせながら、いい相性の自分がついている」
ということからなのかも知れない。
ただ、
「不倫相手」
としての自分は、実にうまく付き合っていけていたが、
「奥さん」
とかかわっている自分は、どうも、相性が合っていないとしか思えないのだ。
「飽きた」
という感覚が、
「相性があっていない」
ということと同じなのかと言われると、ハッキリとした答えがでるわけではないが、
「自分が意識できないのだから、どうすることもできない」
ということであった。
だから、別れを切り出して、奥さんも、同意したことでの離婚ということになったのだが、実際には、
「うまく離婚できた」
ということはないようだった。
どこで、奥さんの結界が壊れたのか分からない。
奥さんの中のもう一人の自分が、出てきたのかも知れない。
そのもう一人の自分というのは、
「猜疑心が強く、嫉妬深い」
というもので、しかも、
「思い立ったり、開き直る」
ということになると、
「自分がすべて正しい」
と思い込むという性格だったのかも知れない。
そうなると、
「どんな過激なことでもしてしまう」
というもので、それを抑えるはずの自分が、開き直った自分に、すでに何もできなくなってしまっているのだろう。
それを考えると、
「俺を殺そうとするくらいのことは、普通にあるんだろうな」
と思えても仕方がないだろう。
だから、村上は、殺される数日前に夢を見ていた。
それは、
「誰かに殺される夢であり、相手が女だ」
ということは分かっていた。
しかも、
「夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
ということが分かっていたはずなのに、その時の夢は、
「決して忘れていく」
というものではなかったのだ。
それを考えると、
「俺って、もうすぐ死ぬんじゃないか?」
と思ったとしても、無理もないことだった。
その時、
「ドッペルゲンガーでも見たのかな?」
と感じた。
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来に死んでしまう」
ということは知っていた。
しかも、
「自分の中に、もう一人の自分がいる」
ということは、意識していたではないか。
それが、
「ドッペルゲンガー」
というものであることは間違いない。
しかし、ドッペルゲンガーというものを、
「ジキル博士とハイド氏」
のようなものだとも思っていなかったのだ。
つまりは、
「ドッペルゲンガーというのは、あくまでも、
「もう一人の自分」
ということで、
「肉体もまったくの別人だ」
ということなのだと思っていた。
そうじゃないと、
「もう一人の自分というドッペルゲンガーを見ると死んでしまう」
ということが言われるわけはないと思うのだった。
「もう一人の別人を見るからこそ、死んでしまう」
という都市伝説が生まれるわけで、
「原因があって、結果がある」
そのプロセスは別だといっても、結果に信憑性があれば、原因にも、信憑性が感じられる。
そうでないと、
「都市伝説」
ということであっても、
「問題とはならないからではないか?」
と考えられるからである。
「自分が死んでしまう」
ということは。よく考えれば、
「それを立証はできない」
ということだ。
なぜなら、
「人間死んでしまえば、それを生きている人間に話すことも、説得させることもできないからだ」
ということになるからだ、
「死なないと、その死の理由が分からない」
ということだから、その死というものについて誰にも話せないということになる、。
もっといえば、
「死後の世界を見れるのは、死んだ人間だけで、死んだ人間が戻ることもできないのだから、死後の世界というのは、想像上のものでしかない」
ということになるわけだ。
しかし、ここで一つ考えられることとして、
「死んだ人間に、もう一人の自分がいるとすれば、その記憶の中から、死んだ人間を呼び戻すことができるのではないか?」
ということであるが、
この発想は、
「一人の肉体の中に、二つの人格が存在しているとして、一つの人格が死んだとしても、片方が生きていれば、肉体も生き抜くことができる」
という考えだ。
これは、
「肉体を滅ぼせば、二人とも死んでしまう」
という、
「ジキル博士とハイド氏」
の発想となるのであろうが、この発想に対して、村上は、
「どちらも正解で、どちらも間違いだ」
ということになるのだろうと考えるのであった。
村上は、奥さんの本性として、
「一番ふさわしい」
と感じるのが、
「嫉妬深い」
と感じるところであった。
というのも、
「元々、結婚前までは、嫉妬深い」
などという考えはなかったのである。
「結婚してから、特に感じるようになった」
ということで、
「まったくなかった」
というと語弊があるが、結婚して一番目立ったということで、
「結婚当初あったのか、なかったのか?」
ということで余計に、結婚後に意識するようになったのだ。
「嫉妬深い」
ということを、村上はむしろ、
「悪いことだ」
とは思っていなかった。
「それだけ、自分のことを好きだと思ってくれているんだからな」
と感じていたのだ。
だが、自分の中で、
「飽きた」
と思わせる感覚に陥らせた原因の一つとして、この、
「嫉妬深さ」
というところに原因があるのではないかと感じたのであった。
「結婚した時と、別れる時で、そんなに気持ち的には変わっていないんだけどな」
と思っていたが、そこが、
「お互いを襷に見るようになった」
ということで、別れる時の自分の目線は、
「結婚した時とは違う、もう一人の自分」
ということではなかっただろうか?
それが、二重人格性ということで、村上は自分としては、
「正反対の性格である」
という風に思っていた。
だが、
「それは違う」
と感じるようになったのだが、それは、
「二重人格を、躁鬱症のように、
「繰り返し、 訪れるもの」
と考えていると、そこに見えるものは、
「多重になった輪が描かれる」
ということだと思っていたのだ。
同じところをぐるぐる描いているので、それだけ、
「ずっと濃くなってくるということだ」
と感じていたのだ。
しかし、実際に離婚が近づいてくると、
「輪を描く」
ということは当たり前のことのように感じるのだが、それを横から見ると、まるで、
作品名:真実と事実のパラレル 作家名:森本晃次