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真実と事実のパラレル

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 ということであれば、自分の死期が分かるということになるのだろうか?
 死んでしまった時、
「あの時感じた」
 と思うかも知れないが、死んでいるのだから生きている人間に、そのことを悟らせることなどできないに違いない。
「ドッペルゲンガー」
 というものがある。

                 寿命とドッペルゲンガ―

 これは、
「自分と同じ人間が、同じ次元の同じ時間に存在している」
 ということであり、それを見てしまうと、
「近い将来、死んでしまう」
 と言われているというものである。
 それは、都市伝説のようにも思われるが、かなりの、
「太古の昔」
 から言われていることのようであった。
 この場合も、その理由についていろいろと言われてはいるが、ハッキリとしたことは分かっていない。
 だが、これも、
「寿命と、パラレルワールド」
 ということを考えると、ありえない発想でもない。
 特に、
「死期が近づいていることが分かる」
 とも言われているようで、それこそ、
「死期についてハッキリと悟る」
 ということで、
「実際に死んでしまう」
 ということであれば、
「それも結果として当たり前のことだ」
 といえるのではないだろうか?
 死期が分かったことで、
「俺は間もなく死んでしまうんだ」
 と、自己暗示に掛けることが、結局、
「死」
 という。
「最終的に絶対に逃れられないことを意識するようになった」
 ということなのだと考えれば、
「死期を悟ったことで、死を迎えた」
 ということは、
「至極当然のことではないか?」
 と言われたとしても、
「それは当たり前のことだろう」
 といえるに違いない。
 それらのことを考えてみれば、
「ドッペルゲンガー」
 というものが、太古から言われてはきているが、その原因がいまだに分かっていないというのは、それだけ、
「人類のテーマ」
 ということでは、ずっと言われてきたことであり、解明されたその時、
「ひょっとすると、人間というもの全体の寿命が尽きる」
 ということになるのではないか?
 と考えられるのであった。
「寿命」
 というものが、いかに大きな問題をはらんでいるか?
 ということも、
「フレーム問題」
 であったりが絡んでくるのだろう。
「自殺」
 などのように、
「自ら自分を葬った」
 という考えは、宗教的には、
「自分で自分を葬る」
 ということになるので、
「殺人と同じだ」
 ということになるだろう。
 これは、どの宗教でも同じかも知れない。
 宗教を信じていない人でも、この理屈は理解できるだろう。
 しかし、それでも、
「自分の命を断たなければいけない」
 というところまで追い詰められたのも事実であり、それを、
「殺人と同じだ」
 といってしまうのは、少しひどい気もする。
 確かに、
「人間の命に係わることができるのは、神様だけだ」
 ということで、
「生殺与奪の権利」
 というものを持つことができるというのは、
「神様だけだ」
 ということになるだろう。
 しかし、本当にそうだろうか?
 そもそも、神様が、人間や社会を作ったのだというのであれば、
「人間が、自分で自分を葬るほどに追い詰められる社会というものを、どうして作ったのか?」
 ということである。
 聖書などによれば、
「人間を作った神様の思った通りにならないから」
 ということで、
「この世を一度滅ぼす」
 という発想からの、
「ノアの箱舟」
 という話があった。
 これは、まるで、
「自分が造ったおもちゃが、うまくできなかったから。もう一度分解して作り直す」
 という発想と同じである。
 確かに、
「人間や社会の創造主が神様だ」
 ということであれば、滅ぼされる方は、文句が言えない」
 ということになるのかも知れない。
 しかし、実際には、そこまで神様の、
「絶対君主」
 というのが、この世ということではない。
 それぞれに国家が存在し、下手をすれば、その国家の方針が、
「生殺与奪の権利」
 ということになるともいえるからだ。
 この世の中において、
「自殺することは、殺人と同じだ」
 という戒律は、あてはまるのだろうか?
 もし、
「死期が分かる」
 ということであれば、それは、
「その時に自分が死にたくなる」
 という時期が分かるということなのかも知れない。
 そういうことであれば、
「自殺というのは、自分の運命であり、実際には自分から命を断つ」
 ということになるのだが、実際には、
「神様によって決められた運命で、寿命と変わりない」
 という考えもできるのではないだろうか?
 ということになれば、
「事故であったり、殺人事件」
 ということであっても、
「結局は、決められた運命」
 ということで、
「寿命における大往生」
 というものと同じなのではないか?
 ということである。
 だから、
「殺されたり、自殺をしたり、不慮の事故」
 ということであっても、
「運命ということに変わりはない」
 ということであり、
「すべてを寿命といってもいいのでhないだろうか?」
 と考えられる。
 そう考えると、諦めがつくのかも知れない。
 考えてみれば、
「戦国の世」
 という時代であったり、
「大日本帝国時代」
 であったりする時、
「いつ死んでもおかしくない」
 という覚悟を皆が持っていたではないか。
 特に、大東亜戦争などでは、
「特攻隊」
 などというものは、
「天皇陛下のために死寝る」
 ということで、まるで、
「男子の誉れ」
 とまで言われていただろう。
「玉砕」
 というのも、その一つかも知れないが、この場合は、少し違っている。
 というのは、
「戦陣君」
 というものがあり、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
 という言葉があり、
「捕虜になるくらいであれば、潔く死を選ぶ」
 ということであった。
 実際には、
「捕虜になると、拷問に掛けられたりして、機密事項を漏らされても困る」
 ということからの、一種の、
「欺瞞」
 ということであろうが、しかし、時代背景から考えると、
「この欺瞞も、当たり前のこととして言われる」
 ということになるのだ。
 だから、
「玉砕」
 というのは、ある意味、
「考え方としては間違っていない」
 ともいえるかも知れない。
 本当に捕虜になれば、実際に国際法上で決められているはずの、
「ハーグ陸戦協定」
 のような、
「捕虜に対しての対応」
 というものが守られることはないだろう。
 それだけ、
「戦時というのは、通常の精神状態ではいられない」
 ということになるのであろう。
 それを考えると、
「人間の寿命で、自殺に近い玉砕」
 というのも、
「ある種の無理もないこと」
 といってもいいかも知れない。
 さらに、戦国時代に起こった事件の一つとして、
「細川ガラシャの自害」
 という問題がある。
 こちらは、
「キリスト教信者」
 である、細川ガラシャが、
「このままでは、人質にされて、夫の足かせになる」
 ということを嫌った彼女が、自害を覚悟した。
 しかし、
「自害は許されない」
 というキリスト教において、彼女の考えは、
作品名:真実と事実のパラレル 作家名:森本晃次