真実と事実のパラレル
と信じられているのに、その行動は、可能性を的確にとらえている。
それができないのであれば、
「弱肉強食」
と呼ばれる、
「自然界の摂理」
というものの中で、生き残っていくことはできないだろう。
それを、人間は、
「本能だ」
という表現をする。
そして、人間は、その本能の代わりに、
「頭で考える力」
というものを持っているということであるなら、
「人間が無限の可能性に対して、頭で考えることなく、無意識に、その答えを見つけることがどうしてできるのか?」
ということになるわけで、その結論が見つかっていない。
「そんな人間に、そもそも、ロボット開発などできるはずがない」
ということで、
「フレーム問題の解決は人間にはできない」
という結論を出してしまえば、そこで、ロボット開発は、終わってしまうということになるだろう。
ただ、モノは考えようということで、
「人間と動物の違い」
ということから考えなければいけないだろう。
となると、
「人工知能におけるフレーム問題の解決」
というのは、
「人間と動物の違い」
というものから研究する必要があり、
「まずは、動物の研究をして、そして、それが分かったうえで、人間の研究ということになるのが普通ではないか?」
と思える。
なぜかというと、
「時系列から考えると、進化という意味で、度物が先で、その後の進化が人間だ」
ということになるのであれば、進化を時系列になぞらえて、その順番で研究する必要があるということになる。
「進化に関しては、まだまだ分からないところはあるが、フレーム問題」
というところに特化して考えればいい。
といえるかも知れないが、逆の考え方から、
「動物の進化は、心身ともに並行してのことである」
という考え方がそもそも成立するのかどうかである。
成立するのであれば、
「頭だけを考えていても、結論は出ないわけで」
つまりは、
「同じ距離だけ差があるのに、それを詰めようとして、同じ速度で進んでいけば、平行線ということになり、交わることはありえない」
ということになる。
この場合は、
「見えるものも見えない」
といってもいいかも知れない。
なぜなら、どこまでいっても、距離が広まったり、縮まったりするわけではない。
ということは、
「目が慣れてしまっている」
ということになるので。
「見えている光景」
というものが、まるで、
「石ころ」
であるかのように、錯覚となることで、見えなくなるということが言えるのではないだろうか?
というのは、
「石ころというものは、目の前にあっても、意識することができないからなのか、
「まったく意識できない」
というものの代表例ということで、よく言われるものである。
これは、
「人間の錯覚なのか」
それとも、
「いつもそこにあるものを意識しないでもいい」
という
「人間の本能のようなものなのか?」
それを考えた時、
「必要以上のことは考える必要がない」
という本能を人間が持っているとすれば、
「それが、人間にとって、フレーム問題をどうして解決できるのか?」
ということの答えではないかといえるのではないだろうか?
人間は、
「必要以上のことを考えない」
つまりは、
「無駄なことをしようとはしない」
という能力を持っていることから、
「それこそが、人間というものであり。
「ロボットにできないフレーム問題の解決」
というものを、無意識にできるという力を持っているということになるのであろう。
そういう意味で、
「フレーム問題」
というものの定義はできたのだから、
「その結論にたどり着けないわけはない」
ということではないだろうか?
そんなフレーム問題において、
「限りなく広がった未来」
というものを、
「時系列」
というものを考えた時、
一つ、
「寿命」
というものも考えたのだ。
というのは、
「人生における時系列は最終的には一つであり、最後に行きついたところが、ゴールであるとすれば、その一瞬一瞬というものをいかに考え合わせるかで、最終的なゴールは、どこを通っても同じだ」
という考えである。
つまりは、
「途中のプロセスが何であっても、紆余曲折があったとしても、最終的にたどりつくところは、同じところだ」
と考えると、
「なぜ、人間がタイムスリップできないのか?」
ということが分かってくるというものである。
つまり、
「最初と最後以外は、どこを通るか分からない」
ということで、それを、
「パラレルワールドだ」
と考えると、
「一瞬先が、無限に広がっている可能性」
だということになれば、さらに次の瞬間というのは、
「これも、無限だ」
ということになる。
ということになれば、
「一瞬目の無限と、さらにその次に広がっている無限とは、同じ無限という言葉を書くが、同じものなのだろうか?」
と考えてしまうのだ。
普通であれば、
「同じではない」
と考えるだろう。
しかし、
「無限というものが、終着」
ということであれば、
「無限に何を掛けても無限になる」
というのは、結果、上限からは何も生まれない」
という風に考えれば、
「無限」
というものは、
「有限の中で、最終的な到達点」
ということになり、
「無限というのは、夢幻だ」
ということになるのではないだろうか?
そう考えると、
「大きさに無限がない」
ということになるのであれば、今度は、
「奥行」
つまりは、
「時系列の行く先に、無限というものはあるのだろうか?」
ということになる。
少なくとも、
「人間の寿命というものは、無限ではない」
ということである。
そして、
「無限ではない」
と考えた時に、行きついた先には、
「何か意味があるのではないか?」
と考えるのである。
そう考えた時のその行き着く先というのは、
「最初と最後は、どこをどう通っても同じ」
ということになるのであれば、
「一度無限にまで広がった可能性が、最後には一つになるのであれば、かならず、どこかから、無限ではない。目に見える有限に至るのではないか?」
と考えられるところである。
つまり
「可能性が、どんどん狭まってくる」
ということであり、それが、人によってではあるが、
「自分の身体は自分で分かる」
ということから、
「死期が分かってくる」
ということになるのだ。
「死期が分かってくる」
という時に、
「目の前に広がる可能性に、限界が見えてきた」
という時ではないだろうか?
それを考えると、
「それが、老化というものであり、肉体的には、30歳前後くらいから」
と言われているが、実際に、精神的にということであれば、
「死期を悟った時」
ということになるのであろう。
結局は、
「寿命というのは、自分に残された可能性が、最後には、ゼロになった時、死をいうものを迎える」
ということである。
しかし、それは、あくまでも、
「大往生」
という場合だけに限られるのだろうか?
というのも、
「これが、自殺や、事故、さらには殺された時」
作品名:真実と事実のパラレル 作家名:森本晃次