真実と事実のパラレル
「人のことなど構っていられる場合ではない」
ということになるだろう。
「自分だって、いつ人から押し出されるかどうか分からない状態で、他人を気にするなどという状態ではないといえる」
そうなると、目撃者が証言したことも、
「本当にそうなのだろうか?」
と、疑ってみてしまうのも仕方のないことであろう。
確かに、
「私はずっと、その人のことを見ていました」
といっても、状況というべきほど、危険な込み具合であれば、
「どうして、そんなにその人のことが気になったんですか?」
と言われかねないともいえるだろう。
「ひょっとすると、その人が女性で、死んだ人間が、男性だったり、その逆だったりすると、ストーカー気質ではないか?」
と思われたとしても、無理もないことであろう。
そうなると、
「証言も、どこか、疑われないようにしないといけない」
ということで、
「本来の真実から、少し目を逸れているかも知れない」
といえるだろう。
ただ、それは、
「事実ではない」
といっているとは限らない。
実際に、
「事実」
というものと、
「真実」
というものでは、基本的に意味が違っている。
「真実」と「事実」
事実というのは、
「誰が見ても、一つでしかない」
というもので、
「物事の根本は、その事実というものから始まる」
といってもいいだろう。
だから、
「事実というものは、一つしかない」
というのだ。
その事実の積み重ねが、時系列での上のことということになり、その中で、
「人と人とのかかわりからの、人情」
というものであったり、ときには、
「忖度」
というものであったりするのだろう。
だから、
「事実というものを時系列でつなげていけば、確かに、一つしかない」「
といえるだろうが、
「紆余曲折する中で、原因と結果が同じである場合、その中に、忖度であったり、人間の感情が孕んでくると、その途中は、微妙に違っている」
ということになるだろう。
つまりは、
「原因から結果に至るまでの道のり」
というものを、
「真実だ」
ということだということになるのであれば、
「真実というのは、必ずしも一つではない」
といえるのではないだろうか?
よく、アニメやドラマなどで、
「真実は必ず一つ」
などと言われているが、厳密に言えば、それは間違いであるといえるだろう。
しかし、実際に、
「原因と結果が同じ」
ということであれば、そこは少々途中が違っていても、
「おおむね同じ」
ということから、
「真実は一つ」
という言い方をするとすれば、それはそれで間違いということではないだろう。
世の中というのは、
「捻じれた空間」
という考え方もある。
これは、
「世の中に存在する、無限の可能性」
という問題に絡んでいるのだが、
「例えば、次の瞬間に、どんなことが起こるのか?」
ということを考えた時、いろいろな可能性を考えることだろう。
これは、
「ロボット開発における人工知能」
というものを考えた時のことだが、
「ロボットに何かの命令を与えた時、ロボットは次に起こる可能性というものを瞬時に考えて、それで行動する」
という風に設計されているとすれば、まずロボットは、次に起こる可能性について、考えるということになるだろう。
しかし、実際に、動かしてみると、
「まったく動かなくなってしまった」
ということである。
ロボットは、
「自分が何をすればいいのか?」
という結論が出ない場合、動かない。
要するに、
「動くという動作」
は、人工知能が作り出した結論の元でなければ動かないということである。
ロボットには、
「次に何をすれば、どうなる」
という考え方はあるが、人間のように、
「恐ろしい」
という感情はないだろう。
ということは、
「怖いから、足がすくんで動けない」
という感情もなければ、
「怖くて不安で何もできない」
ということもない。
つまりは、後悔もしないということだ。
後悔をしないということは、
「反省もしない」
ということになるので、あくまでも、頭の中に最初に設置された。
「最低限の知能」
というものに、今度は、
「経験から身に着けていくもの」
というものが、大切なことだということで、人間であれば、
「感情が行動を制限し、さらに、判断力に影響を与える」
ということになり、
「その中での反省が、次の行動への糧になる」
ということになるであろう。
ということは、
「反省をしなければ、先に進むことができない」
ということで、それが人間でいうところの、
「学習だ」
ということになるだろう。
人間は、
「学習をするために、予習、復習に余念がなく、繰り返すことで、自分の中に叩き込む」
ということを本能のようなもので知っているということになるのだろう。
しかし、
「ロボットには、学習という機能はついている」
といってもいいだろう、
それは、あくまでも、
「経験からだけで感じるもので、頭で考えるという人間のようなものではないのだ」
ということは、
「ロボットにおける、知能と呼ばれるものは、あくまでも、感情ではなく、経験であったり、頭の中で計算して、その答えが合っていることでの納得」
というものが、知能というものであろう。
人間のように、
「頭で考える」
ということと、
「どこが違うというのか?」
ということであるが、その答えとしては、
「人間の場合は、瞬時に、
「無限に存在している可能性」
というものの中から、絶対に必要というものだけを選んで、そこからの選択になるのだ。
だから、ロボットのように、
「まったく動けなくなる」
というわけではない。
もちろん、その答えが間違っていないとは言えないが、それでも、頭の中でちゃんと納得したものを選んで、行動する。
それがロボットにできないというのは、
「無限の可能性」
というものを、
「絞り切るということができない」
ということになるのだ。
それは、ひょっとすると、
「人間が臆病だからなのかも知れない」
つまり、
「臆病で怖い」
そして、
「不安だ」
という思いがあるから、
「その場を動けないというのが怖い」
と感じるようになり、
「とにかく逃げなければ」
という思いが強く根付いていることから、
「動くためには考えて、自分を納得させなければいけない」
という思いが脳を動かすことで、
「人間は、ロボットにはできないという発想を持つことができる」
というものであろう。
そもそも、ロボットにおけるこの、
「無限の可能性をいかに、絞ることができるか?」
というのは、
「ロボット開発」
というものにおける。
「フレーム問題」
というものであった。
この問題は、
「ロボットが、無限の可能性の中から脱却できない」
ということで、
「ロボット開発はできないのではないか?」
ということで、半世紀以上も研究され続けてきたことであった。
しかし、
「動物は考える頭がない」
作品名:真実と事実のパラレル 作家名:森本晃次