真実と事実のパラレル
を見てしまったということで、どんな形になるかということは想像もしていなかったということであるが、
「まもなく死ぬことになる」
という予感があったといってもいいだろう。
実際に、殺されることになったのだが、その自分を殺す相手というのが、
「自分の奥さんだ」
ということを予知していたのだろうか?
秋元刑事の予想とすれば、
「予知はしていただろう」
ということであった。
「もう一人の自分に殺される」
という発想もないわけではないが、相手も、
「ドッペルゲンガーに遭ってしまうと、自分が死ぬ」
ということを分かっているだろうから、
「まるで、ハチが人間を刺す」
という時のように、
「自分の命を引き換えに、相手を殺す」
というような、まるで、
「差し違い」
というようなことは考えていないだろう。
ハチは人間を刺して、尻尾の触覚が折れてしまうと、
「しばらくすると死んでしまう」
ということで、それこそ、
「命がけ」
ということになるのである。
そういう意味で。
「ドッペルゲンガー」
というのも、
「命がけの所業」
といってもいいのではないだろうか?
そんな中で、一人の自殺と思われる死体が発見されたのは、それから一週間が経ってのことであった。
それが、
「もう一人の村上の死体だ」
ということは、誰にも分からなかった。
それは、発見された死体というのが、
「火事の中から発見された死体だった」
ということからなのであった、
パラレル
もちろん、発見された死体が、
「村上氏と瓜二つ」
ということであれば、どうなるだろう?
そもそも、少し前に、殺され、被害者になった人物が、殺人事件として捜査している最中に、今度は別の変死体ということで発見されたということになれば、どう解釈すればいいのだろうか?」
ということになるのだ。
もちろん、
「よく似た人というのは、世の中に三人はいる」
と言われているが、
「ただの偶然としか思えないが、そうではないともいえない」
ということであれば、そこに、
「ドッペルゲンガー」
という発想が出てくるのではないか?
ということである。。
ただ、このドッペルゲンガーも、
「もう一人の自分であるドッペルゲンガーを見ると、近い将来、死ぬことになる」
という
「都市伝説」
というものがあるではないか。
ドッペルゲンガーを見ると、
「どうして死んでしまうのか?」
という理由は、ハッキリと判明していないが、その謂れとして、
「タイムパラドックスを起こさせないようにする」
という、それこそ、
「理屈としては、一番正当性がある」
と言われていることである。
つまりは、
「今回の事件で、火事になったことで、顔が判別できない」
ということは、
「もし、これがドッペルゲンガーではないか?」
ということであれば、
「辻褄合わせのために、顔が判別できない」
ということになるのだろう。
ただ、そもそも、
「どうして、タイムパラドックスというものが、いけないことなのか?」
ということになる。
それはあくまでも、今の時代では、別の観点から、
「タイムパラドックス」
というのはありえないとも言われている気がする。
例えば、
「タイムリープ」
のように、
「過去に今の意識を持ったまま、戻る」
というのは、
「タイムパラドックス」
というものと変わりはないが、
「タイムリープ」
の場合は、
「過去の自分に乗り移る」
ということで、そもそも、
「同じ次元の同じ時間に同じ人間が存在する」
という
「タイムパラドックスということは起こらないだろう」
ということである。
しかし、だからと言って、
「過去を変えない」
とは限らない。
「過去に戻って、過去を変えてしまうことで、未来が変わらない」
とは言い切れないからである。
つまり、
「タイムパラドックス」
というものの、
「根本的な問題の解決にはなっていない」
ということになるのだ。
「タイムパラドックスの問題」
というのは、
「過去を変えると、未来が変わってしまう」
ということが問題で、
「過去の自分や、まわりの運命を変えてしまうからだ」
と言われている。
しかし、
「世界というのは広い」
というもので、一人の人間が生きているうちに行動する範囲の中で、
「運命を変えてしまうだけの歴史を変えた」
ということであっても、
「その影響がどこまで及ぶか?」
ということを考えると、
「少なくとも、自分が住んでいる当たりの未来が少し変わる程度ではないか?」
ということになる。
ただ、未来というのは、
「無限の可能性」
というものがあるわけで、
「それをすべて考えなければならない」
ということは、
「フレーム問題」
というものから考えてありえないだろう。
そもそも、
「次元が、時間についてこれない」
ということになるだろう。
そんな状態で、時間軸においても、世界が広がっているわけであるから、
「自分たちが想像しているだけの広さではない」
ということで、その広さが、薄くなってくると、
「限界として、まるでバブルが弾けるかのごとく、破裂してしまう」
という考えが、タイムパラドックスなのではないだろうか?
ということは、
「広がりすぎたことの、抑制をいかに調整するか?」
ということが、
「タイムパラドックスなのではないか?」
と考える。
だとすると、
「タイムパラドックス」
というのは、もろ刃の剣というもので、
「結局は、無限の可能性を、無限に考えてしまう」
ということで、結局は、
「タイムトラベル」
という概念を否定するということになるのではないだろうか?
それを思えば、
「パラレルワールドという考え方は、タイムパラドックスという問題と、フレーム問題というものがある限り、避けては通れない問題だ」
といえるのではないだろうか?
それを考えれば、
「今回、殺されたはずの村上氏が、今度は、自殺という形で、もう一人の自分が、自分でとどめを刺す」
ということになるわけである。
顔を分からないようにしたのは、
「人間の考えられる理屈」
というものをごまかしたいという意識があるのか、
「もし、その通りだ」
ということになるのであるとすれば、
「顔を焼くという所業をしたという何かの見えない力が働いている」
ということであれば、その仕業というのは、
「人間の創造主」
ということで、
「神様ではないか?」
と考えられるのだ。
そもそも、
「神様が人間の創造主だ」
ということであれば、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
という発想になるのであって、
「神様が人間を作った」
ということであっても、神様が、
「人間の前に現れる」
ということではない以上、人間は神様を確認することはできない。
そのために、
「聖書」
などという書物に書き残すことで、その存在を伝承しようというものである。
だから、
「人間が存在しなければ、神というものの、伝承ができない」
ということになるであろう。
作品名:真実と事実のパラレル 作家名:森本晃次