相性の二重人格
といっていたことを思い出した。
あの頃は、
「相手がいなければ、風俗で卒業すればいいんだ。その方があとくされもないさ」
といっていた友達がいたが、それを聞いて、少しムカッときたのだ。
「あとくされって、どういうことなんだ?」
ということである。
そもそも、
「風俗なんて」
という感情があった頃だったので、
「セックスというものを、自分の中で、汚らしいもの」
という意識がある反面、
「童貞を捨てることを、神聖な儀式」
と考えていたのだ。
それも、考えてみれば、少しおかしな感覚ということで、
「自分の中で、両極端に見えている」
ということは、それだけ自分が、
「二重人格なのではないか?」
と考えている証拠ではないだろうか?
もっといえば、
「二重人格というものが、そもそも、正反対の性格である」
といえるのだろうか?
どうしても、小説にあった。
「ジキル博士とハイド氏」
というように、普段表に出ている性格と、裏に潜んでいる性格とが、
「善悪」
ということでまったく別のものだということから、
「片方の性格が表に出ている間、もう片方の性格は隠れている」
といってもいいだろう。
だからこそ、
「片方が表に出ている時、もう片方の性格は裏に潜んでいる」
ということである。
それぞれに、一つでも、
「どちらが表にいる時でも、表に出ているという性格があれば、自分の中で、自己否定のようなものが起こり、拒絶反応を起こすことで、二重人格をうまくコントロールできない」
ということになるだろう。
もし、人間のほとんど皆が、
「二重人格」
というものを持っていて、それを表に出すことができる人が、ごくまれに一部の人だけだということになると、
「自己否定」
というものが頻繁に起こるようになり、混乱の中で、
「二重人格の性格というものが、いろいろな形で表に出てきて、社会が大混乱になってしまう」
ということになるだろう。
それが、混乱もなく、すんでいるということは、
「人間の性格で、二重人格性というのが、まれなものであり、二重人格者は、特殊なんだ」
という考えになるのではないだろうか?
逆に、
「二重人格が、ほとんどの人にあるのだとすれば、本当に自分の中で、それぞれの性格をコントロールできる」
ということであり、それぞれ、表と裏が、
「正反対だ」
ということになるだろう。
そうなると、一つの性格が表に出ている時、もう一つの性格をつかさどっているものは、完全に眠っていることになるといえるだろう。
そうでなければ、一人の人間がパニックを起こし、混乱から抜けられなくなるというもので、逆に、
「精神疾患の人間の中に、パニック障害というものを起こす」
という人がいるが、実際に見えているパニック障害ではない、見えない、
「パニック障害」
なるものが存在し、こちらも、
「二重人格のもう一つの特徴」
ということで、潜んでいるものなのかも知れない。
そう考えると、
「ジキル博士とハイド氏」
という考え方は、
「性格だけではなく、精神的なことすべてが、ウラと表に潜んでいて、うまくコントロールできていたものを、薬によって分断する」
ということで、
「分かちてはいけないものを分かちてしまった」
ということになり、そこからが、小説のストーリーとしての、
「架空の物語が形成された」
ということになるであろう。
つまり、
「人間の中に、裏表の正反対の性格が潜んでいて。その性格は、人間の力によって、片方だけしか表に出ないようにしていた」
ということが、話の大前提であり、それを人間が、
「自分たちにも、裏表をコントロールできるのではないか?」
という発想から、物語としての、
「理屈」
というものを組み立てて、物語にすることで、
「架空の小説」
ということで作り上げるというものである。
だから、考え方とすれば、
「作者と似たような考え方をしている、学者であったり、一般人は結構いるだろうが、それを物語として、起承転結としてまとめ上げ、さらに、教訓めいた話にできるというのは、それなりに創作力を必要とするものである」
といえるだろう。
だから、
「ジキル博士とハイド氏」
というものは、
「ラストからさかのぼるくらいの気持ちで読む方が、それぞれ違う世界から迫るものがある」
ということから、
「まったく正反対であるが、そこに交わるものはなく、しかし、片方は絶対に眠っていないといけない」
という、どこか矛盾をはらんだ話になっているというのは、
「おもしろい発想だ」
といってもいいだろう。
だから、
「人間は、たまに自分の中に存在するターニングポイントに気づくことで、正反対の人間になりえる」
と感じることがあるのではないだろうか?
実際に、
「その通りだ」
という発想がどこから生まれてくるのか?
ということは分からないが、
「ターニングポイントに気が付いた時、自分の中にいるハイド氏というものの存在に気づくことができるのではないだろうか?」
と考えるのである。
だから、この時の葛城は、
「もう一人の自分が何かを誘っている気がした」
と思った。
もちろん、
「その考えを免罪符にして、今まで否定していたものを肯定する」
と考えているとすれば、それは本当に、自分の考えによるものだといえるだろうか?」
と考えるのであった。
実際に、
「風俗で童貞を捨てる」
と考えた時、どうしても邪魔をするのが、
「罪悪感」
というものだった。
「まだ経験もしていないのに、どうして、最初から罪悪感であったり、うしろめたさなどというものを感じないといけないのか?」
ということを考えてしまうのだった。
だから、
「最初は、誰かについてきてもらおうか?」
と考えたが、
「その時期はとっくに過ぎている」
と思った。
この罪悪感というものが、
「いくつになっても、感情に変わりはない」
と感じるのであれば、まだ若いにも関わらず、
「時すでに遅し」
と考えてしまうのであれば、
「時間の感覚がマヒしているのではないか?」
と思えるのだ。
それが、
「童貞は早く卒業しなければいけない」
という、神話のようなものを頭の中に植え付けたのであろう。
それは、
「思春期というものが、決まった時期にやってくる」
ということを考えると、
「思春期から、童貞卒業までには、賞味期限のようなものがあり、ある程度の年齢を過ぎてしまうと、もうできなくなってしまうのではないか?」
という、妄想に駆られるということであった。
確かに、妄想に過ぎないかも知れないが、よく考えてみれば、
「童貞喪失の最高齢っていくつなんだ?」
と思うのだ。
実際にその実績というものが、症例としてないわけであれば、例えば、
「40歳を過ぎて、童貞を捨てようとしても無理なのではないか?」
ということである。
これには、根拠のようなものがある。
というのは、
「男と女で身体の造りが違っている」
ということであった。
確かに、性に目覚めるのは、男女で微妙な違いはあるが、誰にでも、漏れなく、
「思春期」