複数トリックの組み合わせ
異本が素晴らしかったのは、
「攘夷」
ということで、最初は、
「外国打ち払い」
ということで、国内がある程度一致していたのが、
「相手の力を認めざるをえなかった」
とはいえ、
「素晴らしいと思うところは取り入れる」
という発想から、欧米列強に習ったということからであろう。
ただ、その時に欧米列強のやり方をそのまま真似てしまったことで、
「出遅れを取り戻す」
ということに躍起になり、
さらに、国防ということからの過剰な考えからか、却って、
「欧米列強を刺激してしまう」
ということから、
「軍事大国」
という道を歩み、最後には、
「大日本帝国の崩壊」
という道を歩んでしまったということであった。
ただ、今の時代は、その大日本帝国というものを、反面教師ということで、今の民主主義ができているといっても過言ではないだろうが、今の時代において、本当に、
「今の民主主義が正しいのか?」
ということを問われる時代に入ってきた。
実際に、まわりの国から嫌がらせを受けたり、
「平和ボケ」
ということから、舐められまくるという今の国家を、果たして、
「大日本帝国を作り、けん引してきた人たち」
というのが、
「草葉の陰から、どのように見ているということなのか?」
ということを考えると、
「今こそ、亡国に向かっている」
といってもいいかも知れない。
そういう意味で、今の時代こそ、
「表裏というものをしっかり見極めなければいけない時代になってきた」
といってもいいのではないだろうか?
実際に、今の時代は、
「本来であれば、もっと日本を二分するくらいに、大いなる議論があってもいいのではないか?」
と思われる時代に、
「政府を」
あるいは、
「国家を動かす」
というような大きな力が出てくるわけではない。
その理由として、
「長年における平和ボケ」
というものと、国家元首である首相が、
「ソーリ」
と言われ、最悪の状況にあるからだろう。
「この人さえ首相でなくなれば」
ということで、
「誰が見ても最悪の首相」
が変わったところで、次の首相も、1カ月くらいで、
「化けの皮」
というものが剥がれ、そのうちに、
「誰がなっても一緒」
というどころか、
「変われば変わるほど最悪になっていく」
ということから、
「誰もやる人がいない」
というだけの理由で、結局、
「ソーリは任期満了までするしかない」
ということになるのだ。
その間、ソーリはそれを分かっているのかどうなのか、ある意味、
「自分のやりたい放題」
国家がどうなろうと、
「自分が君臨できればそれでいい」
ということになるのだ。
だから、
「まったく関係のない国が、元々形成していた母国から戦争を吹っかけられた」
ということで、
「血税から、勝手に、無償で金をくれてやる」
という暴挙に走るのだった。
最初こそ、
「民主主義への挑戦」
ということで、
「侵略行為は許せない」
といっていた国民も、さすがに、2度、3度となると、政府のバカさ加減が分かってきたのか、実際には、気づくのが遅いといってもいいだろうが、批判をし始めた。
この遅さが、
「平和ボケ」
ということであり、
「その支援金が、自分たちの税金だ」
という意識がないからだろう。
そもそも、戦争を始めた国において、第三国という、
「戦争に直接関係のない国」
というのは、
「どちらかの国に対して贔屓する」
という立場を示すか、あるいは、
「中立を表明」
という形にしないといけないわけだ。
なぜなら、もし戦闘に巻き込まれた時、
「贔屓国なのか、あるいは、中立国なのか?」
ということで、その事件に対しての国際法の適用が変わってくるからである。
「もし、贔屓していれば、敵対国からすれば、その国も敵ということになり、巻き込まれたとして、被害を受けても、それは戦争の範疇ということで、文句はいえない」
ということだ。
逆に、
「中立国であれば、戦闘に巻き込まれ被害を受ければ、加害国が被害国に賠償をしなければいけない」
ということになるわけで、それこそ、加害国は、
「制裁対象になる」
といってもいいだろう。
しかし、
「中立」
ということは、
「どちらの国に対しても、中立」
ということで、支援金であろうが、本来であれば、奥ってはいけないということになるのだ。
それを送ってしまうと、いくら中立を表明したとしても、敵対国からすれば、
「敵認定」
ということで、
「攻撃されても、それは仕方のないこと」
ということになる。
つまり、
「戦争覚悟でなければ、片方の国を表立って贔屓はできない」
ということになるのだ。
それなのに、
「政治的な事情」
というのは、当事国でしか分からないところがあるというのに、
「民主主義への挑戦」
ということで、侵略者をあたかも悪として考え、その悪を懲らしめる。
「勧善懲悪」
ということから、
「贔屓する国家」
ということで、それこそ、
「政府による国家の私物化」
といってもいいのではないだろうか?
それこそ、命令もないのに、軍を動かすという大日本帝国時代であれば、
「憲法違反」
といってもいいことに相違ないといえるだろう。
それが今の時代であり、民主主義というものは、
「自由、平等、博愛」
などと聞こえはいいが、結果として、
「自由を立てることで、平等を犠牲にした」
という考え方になるのであった。
それが今の日本という国であり、
「裏表があるにも関わらず、いいことや都合のいいことだけを表に出した欺瞞でできた政府」
ということになるのだろう。
飽きっぽい男
飽きっぽいというのは、前述のように、
「我慢できない」
ということも一つの原因であるが、
「今の時代を象徴している」
といってもいいかも知れない。
人間は、子供の頃から、教育というものとして、
「我慢をする」
ということを教えられる。
「あれしてはいけない」
「これしてはいけない」
ということである。
昭和時代であれば、
「親が教えるのは当たり前」
ということであり、もし、親が近くにいなければ、見かねて、
「他の大人が注意する」
ということは当たり前ということであり
「注意を受けると、子供は従わなければいけない」
というのが普通だった。
だから、注意をしない親を見かけると、
「あんた親でしょう。ちゃんと子供に注意しなさい」
と、
「親が他の大人から叱られていた」
というべきか、
「諭されていた」
といってもいいだろう。
しかし、今の時代は違う。
下手に子供を注意などすれば、
「うちの子供に何するんですか?」
ということになるのがオチだ。
昔であれば、
「あんたがしっかりしないといけない」
と親を叱りつけていたのだが、今では、
「人の家庭のことは放っておいて」
ということになるのだ。
それも、
「プライバシーの保護」
ということになるのか、
「他人のことに、土足で踏み入った」
ということで、昔でいえば、
作品名:複数トリックの組み合わせ 作家名:森本晃次