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真実と事実の絡み

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 ということであれば、確かに自分に対して裏切らないということは、義理を通しているのかも知れないが。それはあくまで義理であって、
「愛情ではない」
 といえるのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「ここで殺された社長というのは、嫉妬からの歯車が狂ってしまったことでの犯行ではないか?」
 と感じた。
 一度も見たことがない人だといっても、その人が殺されていたことに変わりはない。
 ということになると、
「殺された人の身近な人が、この部屋に絡んでいる」
 という風にしか思えない。
 ということになると、
「殺された人の奥さんが、浮気をしていて、その浮気相手との逢瀬を、この部屋でしている」
 と考えれば、これが一番しっくりとくるものであり、辻褄もあっている。
 だが、警察も、この事件の、今表に現れている関係者も、そんな当たり前のことを口にしようとはしていない。
 というのは、これはあくまでも、他人事ということでの発想であるが、
「まず最初に考えたことが、当たり前のこととして、今のような、不倫が絡んでいて、関係ないと思えるこの社長と関係を結び付けるならば、それは強引に、不倫相手と不倫をしたのが、この部屋」
 ということだったといってもいいだろう。
 つまり、
「一番最初に、発想が的を得ていたことで、あまりにも的を得ているため、それ以上の発想は難しくなる」
 ということだ。
 だから、
「次第に発想が薄れていき、それが当たり前のこととして考えられるようになると、少し無茶な発想ほど、当たり前だと考えるようになる」
 ということであろう。
 つまり、
「最初の発想が一番的を得ていて、そこから時間の経過と、発想が温まっていくということで、下手をすれば、常識からかけ離れているということになり、最後には、せっかく当たり前の発想が、奇抜な発想ということになってしまうのではないだろうか?」
 そんなことを考えると、
「策を弄したトリックであったり、謎だったりというのは、事件の解決には、減算法というものが考えられるようになる」
 ということであろう。
「策を弄した場合、最後には、次第に、真相から離れていく推理を呼ぶことになる」
 ということも考えられるということだ。
 ただ、それは、あくまでも、
「最初から考えて」
 ということではなく、
「偶然の産物」
 ということである。
 確かに、
「策を弄すれば、簡単に見抜かれる」
 ということで、しかも、
「策を弄すれば、その罠にはまってしまう」
 と言われることもあるだろう。
「策を弄すれば、相手が自分に同じことをしても、気づかない」
 ということと同じである。
「木を隠すには森の中」
 と言われることと、発想的には同じなのではないだろうか?

                 大団円

 この事件において、刑事も、
「死体を発見した」
 と言われる連中には、分かっていない謎のようなものがあった。
 それは、
「奥さん」
 つまりは、
「貝塚美穂と、川端修二による不倫」
 というものが表に出てきているが、実はその裏に、潜んでいるものがあり、それが、本来であれば、
「今回の事件の真相だ」
 ということ、今の時点では誰も分かっていない。
「まだ事件は発覚したばかり」
 ということで、
「事件を順序だてて捜査をし、材料が出終わったところで推理を組み立てれば、おのずと真相が見えてくる」
 ということになると、この時にかかわっている刑事も発見者も、関係者はそう思うのだった。
 しかし、実際に、
「材料が出終わる前に、ヒントが隠されていることが多く、それを的確に把握しておかないと、歯車が狂ったことに気づかず」
 ましてや、
「目の前に見えていることだけ」
 というものを最終的に取り上げてしまうと、結果として、
「大切なことを見逃してしまう」
 といえるのかも知れない。
 実はこのことを提唱している人がいる。
 もっとも、
「提唱というよりも、自論という形で持っているのだが、どうにもそれを表に出すと、まわりに対しておこがましい」
 と考えているのだが、実際には、まわりも、その考えに陶酔しているという人も多かったりする。
 この考えを自論として持っているのは、
「鑑識課の一色」
 なのである。
 一色が、鑑識に入ったのは、
「事実と真実」
 というものの矛盾というのを考えたからだ。
「真実は一つ」
 と、アニメやドラマなどで、よく言われるが、果たしてそうだろうか?
「確かに、事実というものは一つしかない」
 というものだ。
 しかし、真実というものが、
「事実の積み重ね」
 ということであれば、その組み立て方の若干の違いから、違ったものができてくるということではないだろうか。
 つまり、
「事実という、一つしかないそれぞれ形の誓うものは、実は不安定であり、それを一つにしようとすると、必ずしも一つにはならない」
 といってもいいだろう。
 それを考えると、
「真実と事実とは違うもの」
 といえるというものだ。
 そして、
「真実は一つ」
 というようなことを言っているようでは、結果として言えることは、
「真実と事実というものが、混乱してきて、最終的に、真実が事実に置き換わってしまう」
 ということになるのではないだろうか?
 だから、刑事は推理を組み立てる時、思い込みをなくすということで、わざと、
「最初に、感覚をマヒさせる」
 ということをするのではないかと思うのだった。
 今回の事件を考えた時。
「一色が、いつも言っていることが思い出される」
 ということで、なぜか樋口刑事が引っかかっていたこととして、この、
「事実は一つだが、真実は一つではない?」
 ということであった。
「ひょっとすると、まったく正反対で、受け入れられないはずの理屈であっても、見方によって、そのどちらも間違っていないということが考えられる」
 ということであった、
 そう考えると、
「まったく違った発想」
 ということであっても、
「その影に隠された」
 ということが、
「隠れている事実なのか?」
 あるいは、
「隠された事実なのか?」
 という、意図があるなしによって、正反対の発想になることで、
「まるで、路傍の石」
 のように、
「見えているはずなのに、見えない」
 ということになるのだ。
 そして、
「見えていることも事実」
「見えていないものも事実」
 それを一つにすることで、
「真実というものになる」
 ということであろう。
 だから、
「今は見えていないものがある」
 ということであり、それが白日の下にさらされることで、結果として、
「一つの事実と一つの事実が、大きな真実を生む」
 ということになり、
「この場合の真実」
 というものは、
「本当の真実ということで、本当に一つなのかも知れない」
 と感じるのであった。
 今回の貝塚社長が、かつて必死に隠そうとして。
「墓場まで持っていこう」
 と考えた、
「消すことのできない汚点」
 ということでの、裏口入学を、果たして殺害した犯人には分かっていたのだろうか?
 本当は、川端修二という男に会いに来たはずだった旦那である、貝塚洋一は、
作品名:真実と事実の絡み 作家名:森本晃次