念には念を
という。
「なるほど、夕方は、遅い時間、ここの見回りなどで、犯罪が多い可能性のあることで、警備が主で、朝方は、明るいこともあって、公園の前準備に掃除が主な仕事ということになるというわけですな?」
というと、
「ええ、その通りです」
と言って、上目遣いに二人の刑事を見た。
その様子は、
「刑事さんたちもよくご存じの理由です」
ということでの上目遣いであったが、刑事は、そのことにはピンと来ていないようだ。
「刑事さんは、ここと交番の事情については、あまりご存じないということですかね?」
と言ったので、
「ん? というのは?」
と樋口刑事が聞いてみた。
樋口刑事も河合刑事も、自分たちの知りえることから、この状況を鑑みることで、
「スタッフが何を言いたいのか?」
ということが分かる気がしたのだが、二人とも、頭の良さから、勘ではあったが、間違いではないだろう。
それだけ、
「頭がいい」
と言っていいのだろうが、それよりも二人のすごさは、
「相手の態度から勘を用いて、働かせた推理が、ほとんど間違っていない」
ということだった。
これは刑事として、事件を解決するということでの、
「大切な武器になる」
ということで
「事件解決のために、何をすればいいか?」
ということへの指針になると思っていた。
「事件を解決するためには、どんな手段を使ってでも」
と考えるのは刑事としては当たり前のことであり、実際にそのためには、
「甘いことばかりをいってはいられない」
ということだ。
「だからと言って、相手の気持ちを無視した李、土足で踏みにじるというのは決して許されることではない」
とも言われる。
しかし、
「事件を解決してしまわないと、新しい被害者が出る」
ということは間違いのない事実である。
その時に、
「相手のプライバシーを傷つけたり、保護しないといけないと思われるものを踏みにじってはいけない」
ということで、
「犯人逮捕のタイミングを逸すればどうなる」
というのだろう。
「犯人は、味を占めて、第二、第三の犯罪が起こりかねない」
ということになる。
しかも、
「もし、その時、証人が、ちゃんと話をしていれば、誰かが死ななくても済んだ」
ということになれば、
「じゃあ、誰が悪かったのか?」
ということになるのだ。
もし。それが、本人だった場合ということもあるわけで、
「あの時、ちゃんと刑事に話していれば、殺されずに済んだ」
ということになる。
刑事は何も分かっていないので、
「守るべき人間は誰だ?」
と考えてしまう。
しかし、警察に話していれば、警察のプロの目から見た推理で、
「一番危ないのは、こいつじゃないか?」
ということで、
「しゃべった人間が危なかったんだ」
ということになって、警備を強化したに違いない。
そうであれば、死ななくても済んだと言ってもいい。それを考えると、
「まるで、自業自得と言われても仕方がない」
ということになるが、それではあまりにもかわいそうだというものだ。
結局は、
「警察の甘さが、被害者の立場に負けた」
ということで、世間では、被害者の自業自得とは見てくれない。
「警察が、余計なことにかかわりたくない」
という意識から、自分たちの仕事から逃げたということにされてしまうに違いない。
そうなると、
「警察というのは、結局は事件が起こってからでないと、何もしてくれない」
ということになり、それが、警察というものだということになると、誰も、警察を信用してくれない。
「警察は、市民から信用されなくなると、その組織は崩壊した」
と言ってもいい。
警察の力と言っても、おのずと限界があり、事件解決のためには、
「世間様の力が必要となる」
ということで、
「警察は、世間のお手本でないといけない」
つまりは、
「警察がしっかりしているから、他の人にはいえないということでも、話してくれる」
ということで、警察が当てにならないともなれば、
「いくら警察に何を言っても」
ということで、情報も得られなければ、犯人が狙いやすくしているというだけで、
「警察なんか、当てにならない」
と言われてしまい、その人達だけではなく、事件を解決できなかった時は、
「すべて警察が悪い」
ということで、警察組織の悪口が蔓延したりして、本来であれば、
「市民の味方に十分になっている」
というところでも、
「すべての人が、警察を信じているわけではない」
ということで、その世間の意見の対立が、
「犯人にとって都合のいい状況になってくる」
ということになるのであった。
これが、
「警察のジレンマ」
というところであり、それを世間に植え付けたのが、今マラ30年前くらい前にさかのぼった、
「トレンディドラマ」
あたりからくる、
「刑事ドラマのジレンマ」
と言ってもいいだろう。
そういえば、刑事ドラマの中で、
「検挙率を挙げることを問題にする刑事ドラマがあるが、それに対抗して、事件を未然に防ぐために、警察がある」
ということを、いかにも、
「正義だ」
といわんばかりのドラマがあった。
それが、世間に同情を得るという、
「勧善懲悪」
というものに近いドラマだと言ってもいいだろう。
しかし、実際には、そういうことではなく、
「あれだって、日本人の気持ちを逆なでするような、勧善懲悪であったり、判官びいきであったりするところをくすぐれば、視聴率を上げる番組ができる」
というものだ。
「検挙率にこだわるのを問題視する番組を作る放送局が、視聴率を命とするような放送局によって作られている」
というようなことは、それこそ、
「本末転倒ではないか?」
といえるのではないだろうか。
しかも、実際の警察は、それに輪をかけて、本当に、
「何かが起こらなければ、警察は動かない」
ということであったり、
「捜索願は、出すことは出しても、誰も真剣に捜索などしてはくれない」
ということが当たり前だったりするのだ。
しかも、警察の後ろには、
「検察」
というものがついていて、
やつらは、
「罪をでっちあげるためには何でもする」
ということである。
これもテレビドラマであったことだが、ある弁護士が主人公で、
「検事の鼻を明かす」
ということで、弁護側の有利に進めるということで、
「犯人が誰かということを警察が捜査して、状況証拠から、
「犯人に間違いない」
ということであっても、
「参考人の供述をそのまま鵜呑みにすれば、起訴できない」
という、それこそ、
「矛盾した供述を、警察、あるいは、検察に都合よく見せるため」
ということで、
「参考人の供述」
というものを隠蔽する体制が整っているといえるだろう。
だが、それを弁護士に指摘され、無罪となるどころか、
「警察と検察のなれ合い」
というものまであばかれてしまうということで、
「結局は、こちらの都合のいいように」
ということで進めようとすると、却って、動かぬ証拠ということになりかねないということになるのであった。
または、