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表裏別離殺人事件

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 ということは、
「憲法を基準としての君主」
 ということで、
「憲法で決められている主権は、天皇にある」
 ということで、
「憲法や法律で決まっている、天皇の権利を犯す」
 ということは、
「違憲である」
 ということで、それこそ、
「非国民」
 といわれても仕方のないことだったのかも知れない。
 実際に、罪になるならないは別であるが、
「天皇の統帥権干犯」
 といわれることがあった時は、査問委員会が開かれ、裁判となることも実際にはあったということである。
「満州事変における、朝鮮軍の越権行為」
 であったり、
「外務大臣による、海軍軍縮会議において。。政府の独断で、軍縮に調印した」
 などというのは、完全な、
「統帥権の干犯だった」
 ということである。
 統帥権というのは、
「憲法で認められた天皇の統帥における権利」
 ということで、特に、
「陸海軍」
 に対してのものであった。
 日本における陸海軍というのは、
「憲法にて決まっているのが、陸海軍を統帥す」
 ということであった。
 つまり、
「陸海軍というのは、その配置としては、天皇直轄」
 ということで、政府の下ということではない。
 ということから、
「政府であっても、軍に口出しができない」
 ということだ。
 特に、軍部というのは、
「機密事項が満載」
 ということで、作戦面で口出しできないことは当たり前だが、
「軍の体制」
 であったり、
「作戦の遂行状態」
 であっても、軍が、
「機密」
 ということにしてしまうと、何もできないということだ。
 ただ、そうなると、
「軍のほとんどのことが、機密」
 ということになり、結局は、
「政府は軍に何も言えない」
 ということになるわけだ。
 しかも時代は、
「共産主義の台頭」
 ということで、
「スパイ合戦」
 というものが繰り広げられているので、
「怪しいと思う人物は、片っ端からしょっ引いて、そこで、断罪に処する」
 ということにすることで、
「抑止にもなる」
 ということであろう。
 一種の、
「見せしめ」
 ということであるが、それが当たり前だったという時代だったのだ。
「主権は天皇」
 ということで、国民の権利というのは、
「天皇に許された範囲」
 といってもいい
 だから、
「有事」
 つまりは、
「臨戦態勢」
 ということになると、一部の国民の権利が制限されたり、
「徴兵」
 などというものが強制される時代になったりということになるのであった。
 特に、当時は、
「国民」
 のことは、
「臣民」
 と呼ばれ、前述の、
「権利の一部制限」
 ということを容認するということになるのであった。
 それが、大日本帝国の時代ということで、
「国家元首」
 というものがどういうものなのか?
 ということを、当たり前としての教育を受け、洗脳された時代だったといってもいいだろう。
 だからと言って、
「すべてにおいて悪かった」
 という時代でもない。
 ということは、
「今の時代が、何をおいても、大日本帝国に勝っている」
 とはいえないだろう。
 だから、逆にいえば、
「大日本帝国の時代に勝っていたものもあった」
 ということで、すべてにおいて、
「大日本帝国という時代はひどい時代で、間違ってもあの時代に戻してはいけない」
 と考えている人も少なくはない。
 そんな時代の警察は、
「特高警察」
 といわれ、よく引き合いに出されることとして、
「非国民を逮捕して、拷問を加える」
 というものであった。
 戦時中に多かったことで、
「非国民というのは、戦争反対を唱えている人」
 ということで、普通であれば、
「戦時中ということでの臨戦態勢なので、国民が、戦争遂行に対して、ブレることなく、まい進する」
 ということをしないと、
「士気が下がる」
 という意味で、
「戦争遂行は、難しい」
 ということになるのだ。
 軍であっても、政府であっても、
「始めてしまった以上、勝利する」
 ということに責任がある。
 本来であれば、
「戦争責任者である天皇の命令」
 だからである。
 かつて、敗戦後、
「天皇の戦争責任」
 について言及されたが、普通であれば、
「宣戦布告の詔」
 というものを、天皇の名で発表したのだから、
「おのずとその結果は決まっている」
 ということになるだろう。
 もちろん、
「天皇を罰することで、占領計画がうまくいかない」
 という連合国側の理屈というものもあるだろうが、
「戦争責任というものがどういうことなのか?」
 今の、
「押し付けられた民主主義」
 というものを遂行している今の日本国民では、その理屈を考える頭がないといってもいいだろう。
 それこそ、
「教育の違い」
 もっといえば、
「洗脳の有無」
 というものが大きく影響しているに違いない。
 だから今の警察も国民も。
「平和ボケ」
 といわれてもいいだろう。
 何といっても、
「憲法九条」
 というものの解釈を、戦後80年経った今でも、改正されることなく、論議だけがあって、争われているではないか。
 それが、
「いい悪い」
 ということは何とも言えないが、それをいかに解釈するか?
 ということだけは、考える価値は絶対にあるということだ。
 むしろ考えないということは、
「逃げている」
 といってもいいだろう。
 ただ、
「何が難しいのか?」
 というのは、その人のその時の立場や環境が、大きく影響しているということで、
「民主主義の基本」
 ということでの、
「多数決」
 という発想でいけば、本当であれば、
「同じ立場、同じ環境の人における多数決でないといけない」
 ということになるのかも知れないが、その場合においての多数決など、
「理論的に考えて、不可能だ」
 ということになる。
 もっといえば、
「それらの多数決であれば、今度は却って、限定されすぎてしまって、不公平になるのではないか?」
 ともいえる。
 そもそも、
「何が正しいのか?」
 ということを、
「理論ではなく、数の力で決めよう」
 というのだから、
「それ自体が間違っている」
 といってもいいだろう。
 実際に多数決というものの結果で、
「よかった」
「悪かった」
 ということを判断したとすれば、どちらが多いというのだろう?
 そもそも、それ自体が、多数決ということになり、
「理不尽」
 といえるだろう。
 つまり、
「多数決というのがすべてにおいて正しい」
 ということではない。
 表に出ていないかも知れないが、
「多数決ではないか?」
 と考えられることすべてを解釈するとすれば、そこには、まるで、
「いたちごっこ」
 というものを繰り返しているといえるのではないだろうか?
 一種の、
「マトリョシカ人形」
 のようなものであり、さらには、
「合わせ鏡」
 というものに近い発想だといえるのではないだろうか?
「限りなくゼロに近い」
 というもので、
「整数であれば、どんなに割り続けていっても、絶対にゼロにはならない」
 という発想であり、
「多数決」
 というものを取ったとしても、
「絶対に相手がゼロということはない」
 ということから、
作品名:表裏別離殺人事件 作家名:森本晃次