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時代に曖昧な必要悪

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 自分が知りたいことをちゃんと話してくれるわけではないのに、結果として、
「当たり前のことを、当たり前のごとく」
 しかも、
「自分は医者なんだ」
 とばかりに威張っているのだと考えると、苛立ちだけが残るというものだ。
 だから、彼女とすれば、
「一番知りたい病名と、それがどういうものであるか?」
 さらに、
「どのように対処すればいいか?」
 ということを、
「相手が素人だ」
 ということで話してほしいと思うのだった。
 その時の医者は、確かに、
「相手が素人だ」
 という風に思ったのだろう。
 だから、余計なことを言わずとも、
「医者のいうことであれば、信用するだろう」
 と、患者を舐めているとしか思えなかったのだ。
 しかも、その時の医者というのが、
「結局病名をいうこともなく、どうしたらいいのか?」
 ということを、
「休職しなさい」
 というだけで、本人とすれば、
「求職すればいいくらいだったら、最初からしそうしたうえで、病院に来ている」
 と感じた。
「そんな当たり前のことをいわれても、何も感じない」
 ということであり、しかも、問題は、
「たくさんの薬を出された」
 ということであった。
 それこそ考えてみれば、
「病名をハッキリ言わないくせに、薬だけを出すとはどういうことだ?」
 と思うのだ。
「こういう病気なので、この薬」
 ということで渡すのが当たり前なのだろうが、そもそも、薬の種類も、めちゃくちゃに多い。
「精神疾患の患者の場合は、薬がめちゃくちゃ多くて、まるで薬漬けのようになってしまう」
 といわれるくらいに、種類が多いという。
 確かに、一つ一つ説明していれば、
「日が暮れる」
 ということになるのかも知れないが、この対応は、
「患者に不安感しか感じさせない」
 ということである。
 だから、その女性は、
「あんな医者だったら、行かなきゃよかった」
 ということで、
「二度と神経内科になんか行かない」
 といっていたのだ。
 確かに、精神疾患というのは、実に難しい分野といってもいいだろう。
 たとえば、昔から言われる、
「躁鬱症」
 などといわれるものは、最近では、
「双極性障害」
 といわれ、
「躁状態と鬱状態を、周期的に繰り返す」
 といわれている。
「確か昔の、躁鬱症というのも、似たようなものだったのでは?」
 と思うと、
「昔の躁鬱症といわれていたものが、今の総教区性障害というものになったのではないだろうか?」
 といえる。
 ただ、ネットで調べたり、本を読んだりすると、
「双極性障害」
 においての、
「うつ状態」
 というものと、
「うつ病」
 とでは、まったく違うとも言われている。
「双極性障害」
 というのは、
「薬を飲み続けないと治らない」
 といわれている。
 うつ状態から躁状態になる時、
「なんでもできる」
 と思い込む躁状態になるということで、人によっては、
「もう治った」
 と感じる人がいて、自分の判断から、
「投薬を辞める」
 という人が出てくるという。
 しかし、それは、治ったのではなく、
「躁状態の一時的な発作に近い」
 といってもよく、
「決して完治したわけではない」
 そうなると、
「医者だけが問題というわけではない」
 ということで、
「本人の自覚も問題になる」
 ということになると、
「医者を患者が信じられない」
 ということは、
「病気の治癒」
 ということで考えると、
「これほど厄介なことはない」
 といってもいいだろう。
 すなわち、
「精神疾患というものは、お互いの信頼関係がなければ、治癒しない」
 といってもいいだろう。
 患者は、そもそも、
「精神疾患を患っている」
 というわけである。
「医者の側から歩み寄ってあげないと、誰が、患者の不安を取り除いてあげられるということになるんだ?」
 ということであった。
 患者の方でも、
「まさか」
 という思いと、
「恐怖」
 というものから、二の足を踏む状態なのだから、
「患者というものは、医者を頼ってきている」
 ということをしっかり自覚しないといけないといえるだろう。
 聡子という女性が、
「本当に精神疾患だったのか?」
 というのは分からない。
 病院に行って診てもらったわけではない。もし、知り合いが、余計なことを吹き込まなければ、診察をしてもらいにくらいは行っただろうが、
「結果は同じだった」
 といってもいいだろう。
 話を聞いた時、
「私も絶対に、病名もいわれず、ただ薬だけを大量に与えられたとすれば、信用することはない」
 と思う。
 このことは、
「完全に、金儲けのためではないか?」
 と思う。
 病名も分からないくせに、薬だけをたくさん与えるってどうなんだ?」
 といえるだろう。
「この病気に対して、この薬が効く」
 ということではないのか、
 そもそも、薬の開発というのは、
「こういう病気の特効薬であったり、ワクチンとしての効用があるというものを開発する」
 というのが当たり前といってもいいはずだ。
 それを考えると、
「薬なんて、苦いだけで、本当は効かないのではないか?」
 と勝手己思ったりする。
 そういえば、子供の頃には、
「注射であれば、よく効くけど、薬などというものが本当に効くのだろうか?」
 と考えたりもした。
「飲み薬が効くのであれば、何も痛い注射などなくてもいいじゃないか?」
 と思ったからだ。
 子供なので、薬によっては、
「飲み薬でしか効かない」
 というもの、逆に、
「注射でないと効かない」
 というものがあり、それぞれに、効用が違うということになるのだ。
 実際に、最近、
「世界的なパンデミック」
 といわれ、世間を席巻した病気が流行った時、
「ワクチン」
 ということで、注射によるものが、流行後、一年しか経っていないのに、その正体も分かっていないのに、
「緊急事態」
 ということで開発されたワクチンを、政府が中心になって接種に躍起になっていたが、それは、
「注射によるもの」
 であった。
 そして、ワクチンは、
「海外のメーカーが開発し、輸入した」
 というものであったが、その時、国産でも、
「ワクチン」
 であったり、
「特効薬」
 の開発が行われていたが、結局、
「表に出ることなく、もう誰も何も言わなくなった」
 というものがあった。
 ワクチンというのは、あくまでも、
「予防接種」
 ということであり、
「まだ、病気に罹っていないという人が摂取することで、勘違いされやすいのだが、別に病気に罹らないというわけではなく、病気に万が一感染しても、その病状がひどくならない」
 ということでの接種であった。
 これが、
「ワクチン効果」
 というものであるが、特効薬というものは、その目的が違う。
 特効薬というのは、
「病気に感染してしまった人が、これ以上悪くならないように、沈静化を目的に接種する」
 というものである。
 例えば、
「インフルエンザ」
 であれば、
「タミフル」
 などが有名であろう。
 または、昔でいうところの、
「不治の病」
 といわれた、結核であれば、
「ストレプトマイシン」
作品名:時代に曖昧な必要悪 作家名:森本晃次