悪魔と正義のジレンマ
という問題が、大きな社会問題になりかかった時代もあったが、なぜか、そこまで大きな問題にはならなかった。
これはあくまでも、
「陰謀論」
といってもいいのか、それとも、
「都市伝説」
ということになるのか、一種の、社会問題ではあるが、それが急に下火になったというのは、
「何か大きな力が働いているのかも知れない」
といえるだろう。
そのことを気にしている記者が、ここにいた。
他にもたくさんの記者が気にはなっているのだろうが、それを口にすることをしないのは、それが、
「口にしてはいけないこと」
ということになるのかも知れない。
それを思えば、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
といってもいいだろう。
男女平等をあまりにも主張しすぎると、今度は、女性の力が強くなりすぎる傾向にある。
これこそが、
「パワーバランスが崩れる」
ということであり、
「冤罪というものを生むことになる」
といってもいいだろう。
そこに付け込んでいるといえるのが、
「美人局」
のようなものであろう。
そもそも、
「美人局」
なるものは、今の時代に始まったものではなく、むしろ、昔の方が多く、今は減ってきているかも知れない。
そもそも、この犯罪というのは、
「相手の弱みを握り、脅迫する」
ということで、卑劣な犯罪だといえるだろう。
同じような意味として、
「かつあげ」
というものも似たようなものであろう。
共通していえることは、
「本当のワル」
といわれるような人はしないということである。
「かつあげ」
などというのは、学生時代に、不良の先輩に言われ、下っ端がやる犯罪のようなものであり、
「美人局」
というものは、チンピラなどが、女の子と組んでやるものだ。
それぞれに、縄張り意識があれば、普通はやらない。
上から言われてやるのであれば、その上も大したことはないといってもいいだろう。
さらに、美人局にも、
「女が男に色目を使って、ホテルに誘い込む」
という、
「オーソドックスな美人局」
というものもあれば、
「ターゲットを痴漢に仕立てる」
ということでの、
「手口としては、そこまで危険性のない」
ということも、大いに脅迫材料になるというものである。
特に、最近の、
「男女平等の観点」
というものが、この、
「痴漢冤罪を使った美人局」
というものを増長しているといえるだろう。
なぜなら、
「痴漢冤罪をでっちあげる」
ということで、以前もその傾向があったが、電車の中で、女性が、
「この人痴漢です」
ということを言えば、まず間違いなく、その男は、
「推定有罪」
ということになるだろう。
しかし、以前のような男女平等の観点がなければ、女は、自分から声を挙げるようなことはしなかっただろう。
声を挙げるということは、
「恥ずかしいこと」
ということでもあるし、
「男からの復讐が怖い」
という思いもあった。
今でもその傾向は残っているだろうが、男女平等の観点が根付いてきたということで、今ではそこまで考えなくてもよくなったというのが、
「声を挙げることで、男から、自分が女として、自意識過剰だ」
と思われることが嫌だということであろう。
男が、女に対して、
「自意識過剰だ」
と考えるのは、あくまでも、
「男尊女卑」
という考えからくるもので、
「女性が男性に対して感じているコンプレックスの現れが、自意識過剰だと思われているのだ」
ということを、女性が強く感じた場合であろう。
しかし、男女平等ということになると、男性の意識も、女性に対して、
「自意識過剰」
とは思わなくなるだろう。
何といっても、セクハラというものの言葉の威力は凄まじい。
というのは、
「今までであれば、ただの世間話」
であったり、
「朝の挨拶」
などというものが、男女平等ともなると、
「すべてセクハラ」
ということになるのだから、男とすれば恐ろしいと思うことだろう。
それこそ、
「地雷を踏む」
というべきか、
「踏み絵を踏めるかどうか?」
という意識に繋がってくるようにも思えるのだ。
それまで、男としてもプライドを捨てなければ、
「セクハラ」
という言葉に対抗できないだろう。
「セクハラ」
というのは、その言葉だけで、男性を奮いあがらせるだけの力があるといってもいいだろう。
特に、
「○○さんは、まだ結婚しないの?」
という、今までであれば、世間話が、今では、
「セクハラ」
といわれるのである。
それくらいならまだよくて、
「今日はかわいいね」
という朝のあいさつ程度のことであり、それが誉め言葉であっても、
「セクハラ」
ということになるのであろう。
たぶんであるが、
「女性を、性の対象として見ている」
ということから、
「セクハラ」
といわれるのだろうが、そうなると、男性は、
「地雷が埋まっているところを、わざと歩かされているかのように思えてくる」
ということになるのであった。
自分としては、
「女性を性の対象として見ていない」
と思っていても、相手が、
「そんな目で見られた」
といえば、こちらも、
「推定有罪」
ということになってしまう。
それが、実は、
「冤罪を生む」
ということでの一番恐ろしいところで、女性の側も、盲点なのかも知れない。
いや、
「男性であろうと、女性であろうと、結局は自分のことしか考えていない」
ということになれば、
「相手が、異性だから」
ということではなく、その根本が違っているということで、
「果たして、男女平等」
というのは、結局は、どちらにも平等な人間が裁かないといけない問題なのではないだろうか?
大隈慎吾は、そんな時代で、どんな役割を負わされるというのか。彼は、少し頭が弱いということで、両親からは、口では、
「気の毒な子供」
といわれていたが、
「そんなことを言えば言うほど、子供が惨めになるだけだ」
ということを分かっていないのか、そういうことを平気でいうので、それを聴かされた方は、苦笑いをするしかなかった。
表向きは、
「子供のことを心配している両親」
ということで、それを諫めることは忍びない。まわりは、絶えずその両親に気を遣っていくしかないのであった。
それこそ、
「生まれながらに平等ではない」
ということになるのだろう。
ただ、幸か不幸か、慎吾の親は裕福だった。そのおかげか、少し頭が足りない子供といわれながらも、何とか育っていた。
もっとも、今の時代は、生まれながらの精神疾患の子供も多く、実際に、そういう養護施設もたくさんあった。
裕福な家族だったこともあって、親は、
「それぞれに忙しい」
ということであったので、親としては、養護施設に入れることに対して、何ら違和感もなく、子供を通わせる時の付き添いに、普段から雇っているハウスキーパーにやらせたのであった。
「一人で足りないのであれば、二人目を雇えばいい」
ということで、
「なんでもお金で解決すればいいんだ」
という考えが身についていたようだった。
作品名:悪魔と正義のジレンマ 作家名:森本晃次