悪魔と正義のジレンマ
「収めた年金が返ってこない」
などという時代がくれば、どうなるというのだろうか?
民間の保険会社に、昔からある制度である、
「個人年金」
なるもので何とかしないといけない時代になってきたといってもいいだろう。
それこそ、
「国家は何もしてくれない」
ということで、
「昔のような、安価な政府」
つまり、
「チープガバメント」
というのが正しい考え方ということになるのではないだろうか?
これも、
「洗脳」
と、
「マインドコントロール」
という言葉のように、若干は違うものではないかといえるかも知れない。
そんな政府に対して、文句はあるが、
「それでも、省庁である文科省に入った」
というのは、やはり、自分を生かせる仕事ということを考えたからであろう。
確かに、文科省に入れば、
「国の機関」
ということで、国や国民のためという気持ちになるのが普通なのだろうが、そんなことではなく、
「あくまでも、自分のやりたいことをする」
ということに集中しようと考えるのだ。
「それだけ、自分が、人のことを考えるような人道的な人間ではなく、自分のことだけを考える」
といってもいいだろう。
何かを研究するということだって、何も、
「人のため」
などということを考えているわけではない。
あくまでも、
「自分が好きなことをやりたい」
そして、
「それをできる環境を自分で探してみる」
というところから見つけたもので、言ってみれば、
「天職だ」
といってもいいかも知れない。
だから、文科省の仕事は好きだといえるはずなのだが、どうも、あまりやりたい仕事ということでもないようだ。
そんな人間が、
「高千穂研究室」
というものに巡り合ったのは、ある意味、
「偶然だった」
と言い切れるだろうか?
そもそも、
「偶然と必然」
どこが違うというのか?
意識が働いていることで、
「偶然とは言わない」
ということなのか、それとも、
「必然ということには、意志が働いていてはいけない」
といえるのだろうか?
ここでいう、
「意識」
というものと、
「意志」
というもの、それぞれに違うものだと考えると、
「意志というものが、意識に変わる時、必然が偶然になるのではないだろうか?」
とも考えられる。
一緒に考えることとして、
「意識と意志」、
そして、
「偶然と必然」
どちらも、それぞれに反対語だといえることなのかということを考えると、それぞれに退避できるものではないといえるのかも知れない。
同音異義語である。
「意志と意思」
似ている言葉のようだが、実際には、その距離はかなり遠い。
それこそ、
「反対語ではないか?」
と感じるほどである。
それでも、えてして人間は、その違いというものを、正直分かっているというものではないだろう。
そういう意味で、先般からよく行っている、
「マインドコントロール」
という言葉と、
「洗脳」
という言葉も、どこか
「似て非なるもの」
といってもいいだろう。
ビジネスホテルでの異変
「大隈慎吾」
今年、14歳になる、まだ中学生の少年がいるのだが、彼は、学校でも、
「少し頭が足りない」
といわれている子だった。
もちろん、今の時代であれば、そんな子供を誹謗中傷したり、差別的なことを口にすれば、世間から、総スカンを食らうといってもいいだろう。
それが、学校という場所であれば、なおさらのことで、人から何かを言われないようにしないといけないということよりも、まわりの方が気を遣ってしまい、昔のように、差別をするというよりも、
「差別と取られるようなことをすれば、自分の立場がない」
ということで、結局、自分のことを考えると、
「こんな厄介なやつとはかかわりたくない」
と思うのが、今の世の中といってもいいだろう。
今から、半世紀くらい前までというと、それこそ、
「同和問題」
であったり、
「部落問題」
などということが、小学校などの、
「道徳問題」
ということで、授業になっていたりした。
当時は、住んでいる地域で、差別を受けたりしたことで、
「生まれながらに、平等ではない」
というのが当たり前だった。
もちろん、それは今でも同じことだが、それを
「感じさせない」
ということで、まるで、
「臭いものには、蓋をする」
という状態になっているのだ。
だから、今の時代は、
「口ではいいことを言っているは、実質はどうなのか?」
ということである。
確かに、
「コンプライアンス違反」
ということで、社会風潮的に、
「権力や立場によって、相手に理不尽な差別を受けさせるということは許されることではない」
ということからの、
「コンプライアンス違反」
ということで、
「男女の差からの、セクハラ」
であったり、
「仕事上の上下関係というところの立場からの、パワハラ」
であったりと、半世紀前では、
「理不尽ではあるが、当たり前のこと」
ということで、逆らうこともできない状況だったものが、次第に、
「弱かった者の立場が強くなる」
ということが言われてくるようになった。
それは、あくまでも、
「平等」
というものに、充てられる発想ということで、
「今までの、男尊女卑」
というものから、男女平等の観点ということで、
「セクハラ」
というものが言われ出したといってもいいだろう。
しかし、今の時代では、それが少し、
「行き過ぎているのではないか?」
と考えられたりする。
その一つとして、
「あまり、男女平等というものを言いすぎると、今度は女性が強くなり、ぱわーばワンスが崩れてくる」
ということになりかねない。
確かに、今までの歴史の中で、世界的に、
「男尊女卑」
というものが当たり前だったということで、
「男には許されても、女だとダメだ」
ということも当たり前に言われてきた。
それは、
「太古の昔」
の方が、人類の平等という意味では、ひどかった。
何といっても、
「奴隷制度が当たり前に存在している時代」
だったではないか。
某国などでは、ここ200年くらい前までは、平気で奴隷制度があった国もあった。
あからさまに、
「奴隷制度」
というものはなくとも、植民地という形で、元々は、自分たちが力で侵略した国の国民を、まるで。奴隷扱いをしてきたというものである。
もっとも、かの世界大戦で、日本が参戦することでの大義名分は、
「そんなアジア諸国を、日本が解放する」
というものだった。
それが、欺瞞であったかどうかでもあるが、それよりも、
「そもそも、そういう大義名分を与えることになった相手国がある」
というわけで、それが、そもそもの問題なのではないだろうか?
それを、
「戦勝国だった」
ということで、その事実をまるで、闇に葬ろうというのは、それこそ、
「勝てば官軍」
という理屈だといって過言ではないだろう。
そんなコンプライアンス違反の中でも、セクハラという観点からの、
「冤罪」
作品名:悪魔と正義のジレンマ 作家名:森本晃次