悪魔と正義のジレンマ
そのどちらも、絶対に、人まねであってはいけない。もちろん、手本にするということは問題ないのだが、それはあくまでも、
「考え方」
ということであり、
「まるまるコピー」
などということは、ありえないといってもいいだろう。
自分が、学生時代に研究をしていたことに、
「心理的な発想」:
というものがあったが、
「人のまねをするというのは、自分から逃げているということである」
と結論付けていたのだった。
考えてみれば、
「人のまねをする」
というのは、
「盗人と同じ」
といえるのではないだろうか?
相手が、
「真似をされても構わない」
と言ったからといって、
「はい、そうですか?」
というのは、それこそ、
「相手から逃げるわけではなく、自分から逃げているようなものだ」
と考えたのだ。
確かに、頑固な考えといえばそれまでであり、
「郷に入っては郷に従う」
という言葉があるように、
「いいところは吸収する」
というのも、悪いことではない。
しかし、それは、
「自分が自分である」
という上で、果たしてそうなのかと考えると、またしても、自分を否定する自分がいることを感じるのであった。
だから、彼は、
「一般企業から、いくつもの大手からも、誘われるほどの優秀な学生だったが、敢えて、文科省に入ったのだ」
「一般企業で研究」
ということもできたのだが、一般企業で研究室に入って、他の研究員と研究を行うということになると、それは、
「研究でできた成果を、すべて会社に取られてしまい、自分の手柄にもならない」
と思ったからだ。
給料は少しは上がるかも知れないが、名誉欲で考えた時、
「絶対に後悔する」
と思ったのだ。
文科省であっても、同じことが言えるかも知れないが、少なくとも、研究を発表する時、その博士の名前は表に出されると思ったことで、文科省を選んだのだ。
その思いは、今のところ、
「世間に発表できるほどの、大きな研究を成し遂げていないことで、その道はまだまだ険しいということであるが、中から見ている限り、自分の選んだ道に間違いはなかったのではないか」
と思うのだった。
もちろん、文科省に入れば、
「研究に明け暮れる」
というわけにもいかない。
今回のように、市場調査のようなこともしなければいけないわけで、それはそれで嫌ではなかった。
大学の研究室などを調査していると、
「自分の研究に役に立つ」
ということが分かってくる。
それは、真似をするなどという発想ではなく、
「やっていることの正否というものが分かってくるのであり、それによって、自分の進むべき道」
というのが見えてくるという考えだった。
そういう意味でも、
「文科省でよかった」
と思っている。
民間企業の研究室ではそうはいかない。何といっても、
「研究室に入り込むと、完全に隔離状態で、まわりからは見張られていて、自由が利かない」
ということになる。
それこそ、江戸時代など、罪人が、佐渡島に流されたりして、そこで、強制労働に従事させられているのを見ているようなものではないだろうか?
特に佐渡には金山があることで、誰にも見つからないように、強制労働させられ、
「死んだらそのまま」
というようなむごいことをさせられる。
さすがに、そこまでのひどいことはないが、企業とすれば、
「ライバル会社に秘密が漏れないように」
ということで、
「必要以上に目を光らせている」
といってもいいだろう。
それを考えると、それだけでも、
「民間会社にいかなくてよかった」
といえるだろう、
一度研究室に入り込むと、下手をすれば、
「一生出られない」
というブラックな企業もあるに違いない。
今はどうか、正直分からないが、かつては、
「そんな体制が確かにあった」
ということだったという。
それが時代的にいつのことだったのかということが、ハッキリとしないので、
「今がどうなのか?」
そして、
「どのような時代になれば、そういうひどい状態になるのか?」
ということを考えると、
「完全に、これを、飼い殺しというんだ」
といってもいいだろう、
会社に誘う時は、相当な甘い汁を吸わせておいて、その気になってしまい、手中に収めてしまえば、
「釣った魚に餌はやらない」
ということと同じではないか?
特に、
「民間企業というのは、会社が生き残るためには、社員はどうでもいい」
というところが多い。
結果として、
「それが間違いなのか、正しいのか?」
ということは一概には言えないが、
「内部留保」
などという考え方が蔓延っている日本は、果たして、どこに向かっているというのだろうか?
この、
「内部留保」
というのは、日本における、
「失われた30年」
といわれているように、
「バブル崩壊の後、他の国では、右肩上がりでの成長があるのに、日本では、まったく成長していない」
ということになる。
この30年間において、日本は他の国にはない、
「バブル崩壊」
を経験した。
だからこそ、
「年功序列」
であったり、
「終身雇用」
という昔からの日本の伝統が崩れてきたことで、企業は、
「潰れないように」
ということで、会社内に、一定の蓄えを持つようになった。
これは、ある意味、
「社員を守るため」
という大義名分でもある。
というのは、
「社会を不況が襲ったりして、それによって、会社とすれば、リストラしないと、会社が潰れるということにならないように、最初から貯えがあれば、少なくとも、リストラを大々的に行わずに済む」
ということで、
「雇用の確保という意味で大切だ」
といわれている。
しかし、実際には、
「どんなに働いても、給料は上がらない。そのわりに、物価だけが上がっていく」
ということで、
「結局は、給料が下がっているのと同じだ」
ということになるのだ。
物価の調整をうまくできない政府のせいで、
「失われた30年」
といわれるが、もっといえば、
「国家自身が、どんどん赤字になっていく」
ということで、税金がどんどん上がってくるわけで、そのすべてが、
「政府や政治家のせいだ」
といっても過言ではないだろう。
そんな中、政府はあくまでも、
「経済を活性化させる」
ということだけを目指した対策をしている。
たとえば、
「働き方改革」
や、
「祝日を増やす」
などということで、
「まるで、国民のために」
というようなことを言っているが、要するに、
「働き方改革」
であっても、
「祝日を増やす」
ということであっても、その理由は、
「国民に金を使わせる」
ということを目指しているだけではないか?
企業が、自分の会社を守るために、
「内部留保」
というものを蓄えるというのと同じことだ。
だとすれば、
「個人としても、政府や企業に頼ることなく、いかにすればいいかということを考えないといけない」
ということになるだろう。
要するに、
「自分のことは自分で何とかしろ」
といっているようなもので、年金制度の崩壊し、いずれは、
作品名:悪魔と正義のジレンマ 作家名:森本晃次