自殺というパンデミック
「ホスト狂い」
などという、ネガティブな部分と、
「好きでやっている」
というポジティブなものンとに分かれるのではないだろうか?
そんな中において、一人目の自殺者というのが出てきたのが、
「最近自殺者が少し増えてきた気がするな」
という時期に入っていたのだ。
そもそも、この時期は、
「パンデミックの影響で増えてくるのではないか?」
と言われていた時期だっただけに、実際には、
「想像していたよりも、そこまで多くはない」
ということであった。
実際に、最近になってから、増えてきたと、口々にウワサも聞こえてくる。しかし、それについて、
「多い少ない」
という意見を口にする人は少なかった。
それは、その想像が多いのか少ないのか、人それぞれの感じ方で、
「正誤」
というものをハッキリと明確にできないということから、
「余計なことはいわない方がいい」
ということになるのであろう。
ただ、実際には、それこそ、
「都市伝説」
といっていいのか、それとも、ネットなどでよく言われる、
「陰謀論」
と言われるようなものなのか、どちらにしても、信憑性はないといってもいいだろう。
ただ、今のネット社会では、
「信憑性が問題というわけではない」
と言われていて、
「バズれば、それでいい」
と言われる時代でだった。
つまり、SNSなどで、高評価をもらえることで、それが収入につながるなどということであれば、
「何をやっても構わない」
というような風潮があった。
中には、動画配信などで、
「わざと交番の前で、明らかな犯罪をやらかすことで、それを見た警察が、パトカーで追いかけているところを、他の人、いわゆる、撮影班が、それを撮影し、ネットに流す」
ということで、相当な数の高評価を受けることができるということだ。
もちろん、犯罪行為を犯しているのだから、捕まれば、逮捕は免れない。それを覚悟で撮影しているわけであり、
「逮捕されるところまでの一部始終が配信対象」
ということになる。
「もちろん、殺人などの凶悪犯であれば、冗談では済まされないが、それが、信号無視であったり、食い逃げのような、比較的冗談といってもすむと思われる程度の犯罪」
ということであれば、
「罰金程度の略式起訴程度で済む」
ということで、
「それなら、高評価をもらう方が、自分の将来のためにはいい」
ということになるのだ。
どこかの会社に勤めるということであれば、その人が、前科者だったというようなことになれば、
「首にされる」
ということもあるかも知れないが、今の時代は、
「プライバシーの保護」
ということもあり、簡単に、社員を雇う時に、プライバシーに抵触するようなことはできないわけで、それが今のような、
「SNS」
が発展し、
「ユーチューバー」
などのような、配信する人が仕事ということであれば、よほどのことがない限り、
「前に、万引きをした」
あるいは、
「交通違反で罰金を食らった」
などというくらいでは、ビクともしない。
軽い犯罪くらいであれば、
「ユーチューバーなら当たり前だ」
と言われるくらいの時代になってきているともいえるのではないか?
つまり、
「法に触れようがどうしようが、世間一般に悪いことをした」
という認識がなければ、昔のように、まわりから、
「あの人は警察の世話になった人間」
ということも言われないだろう。
それこそ、
「差別問題」
であり、
「プライバシー保護」
の観点からも、問題視されることになるといってもいいだろう。
実際に、
「悪いことをしたというのが、その境界線がどこにあるのか?」
というのも、曖昧であり、これは、今になって曖昧になってきたというわけではなく、昔から言われていたことだといってもいいだろう。
それが、今の時代の問題ということでもあるのかも知れないが、
「それだけ、他人に干渉しない時代になってきた」
ということで、これが、
「いいことのか、悪いことなのか?」
という境界線は、
「善悪」
という考えではなく、
「他人事でいられるか、他人事では済まされないか?」
ということに掛かってくるといってもいいのではないだろうか?
そういう意味で、昔から言われていた、
「世間体」
であったり、
「一般社会人の常識」
などと言われることで、
「世の中の善悪というものを考えることはできない」
といってもいいのではないだろうか?
昔の家長制度であれば、
「父親が一番偉く、父親のいうことには絶対だった」
という時代から見れば、今の時代はまったくのナンセンスだ」
ということで、
「父親が子供に少しでも無茶なことを言えば、今では、虐待」
と言われ、
「教育やしつけ」
などという言葉は、あてはまらなくなる。
だから、子供が表で騒いだりすれば、昔であれば、子供に対して。
「静かにしなさい。他の人に迷惑でしょう?」
といって説教していたものだ。
もし、親が説教を怠ったりすれば、他の大人が子供をしかりつけ、親に対しては、
「あんたら親だったら、ちゃんとしなさい」
と、親にまで説教したものだ。
しかし、今であれば、親は子供が騒いでいても、何もしない。今のように、
「虐待と言われたらたまらない」
ということなのであろうが、ただ、実際に親が何も言わなくなったのは、虐待というものが流行り出すまだまだ前だった。
だから、親が子供を叱らないことで、年配の人が何か文句をいえば、親の方とすれば、
「虐待に繋がる」
という言い訳をしても、それは、本当の理由ということではない。
「ただの欺瞞だ」
といってもいいだろう。
だから、親も何も言わないし、子供も、
「家に帰ると何をされるか分からない」
ということで、
「自由にできるのは表だけ」
と考えているとすれば、その子もかなりの知能犯といってもいいかも知れない。
もっとも、本当に親から虐待を受けているのであれば、そこまで頭が回らないだろう。
というのは、
「虐待を行う親というのは、意外と狡賢い」
といってもいいだろう。
「子供が何か、SOSを出そうものなら、親側にも言い返しができるだけの材料をいつも持っている」
という人が多いという。
それだけ、
「親も知能犯」
といってもいい。
数十年前の苛めの、
「虐める側」
というのが、
「学校から親に変わった」
ということで、本来であれば、味方でなければいけないはずの親が、虐待という形の苛めをしているということであれば、本当の意味で、
「少子高齢化」
の解決など、ありえるはずもないのだ。
「子供を作れ」
ということは、それだけ、
「虐待が広がる」
ということを分かっているのだろうか?
実際に、
「少子化問題の省庁」
というものが、そこまで考えているわけはないということである。
殺人事件が多いということを少し気になっていた時期だったので、
「変死体」
ということで、その日は皆、うんざりした気持ちで出動した。
通報が入った時刻は午前中で、皆、
「これから仕事」
という体制であった。
作品名:自殺というパンデミック 作家名:森本晃次