自殺というパンデミック
「罹るところでは、ほぼ全員が感染することになるが、流行っていないところでは、誰も罹らない」
というような、
「極端な分布図ができあがる」
ということになるのだろう。
だが、それはあくまでも、
「注意をしているから、今まで罹った人がいない」
ということであったが、感染力がピークの状態となれば、
「罹る人がいない」
という状態は、
「運がよかった」
としか言いようがないと言ってもいいだろう。
そういう意味で、
「まわりに罹ったという人がいない」
というのは、どこまで信憑性があるのか分からないが、実際には一定数いると聞くので、これも不思議な、まるで、
「都市伝説のようだ」
と言ってもいいのかも知れない。
実際にパンデミックが起こってから、自殺者が増えたと言われているが、実際に、そこまで体感的に感じることはない。
確かに、パンデミックの間に行われた、
「休業要請」
であったり、
「リモートワーク」
などによる人流抑制のための対策ということで、
「緊急事態宣言」
なるものがあり、飲食店を中心とした店舗が、大きな被害を受けると言われていたが、実際に、緊急時代宣言が終わった後、
「店舗の閉店」
というのが、軒並みだった。
しかし、実際に自殺をしたという話も聞かない。ただ聴かないというだけなのかも知れないが、いわゆる自殺というとパッと思い浮かぶこととして、
「電車への飛び込み自殺」
というものであった。
いわゆる、
「人身事故」
というものだが、以前から、
「人身事故のほとんどは、飛び込み自殺」
と言われていて、実際に考えれば、1990年代は、非常に多かったという記憶があるのだった。
この時期というのは、いわゆるm
「バブル崩壊時期」
ということで、人身事故は、もろにそのバブル崩壊の影響だったのではないか?
そう考えると、その頃は辻褄が合うわけだが、今回のパンデミックの時期によって、そこまで人身事故が多いという感覚はない。
何しろ、バブル崩壊の時期は、
「週に何回も、人身事故で電車が運転見合わせるということが日常茶飯事のように起こっていた」
と言ってもいいだろう。
さすがに、
「またか」
ということで、慣れっこになってしまったかのようだったが、今では、その時の、
「またか」
という思いと、たまに起こった場合の憤りというものが、同時に感じさせられるということで、複雑な思いが、却って感覚をマヒさせるという、おかしな現象になっているように思えてならなかった。
実際に、自殺というものをどう考えるかであるが、確かに、
「他人事だ」
と世間を、そういう目でしか見ない人にとっては、
「しょうがかい」
ということで、冷静に見ていることだろう。
だから、電車が遅れても、誰も駅員に文句を言おうとはしない。
しかし、実際に迷惑をこうむっているのは、利用者である乗客のはずなのに、誰も文句を言わないというのは、
「言ってもしょうがない」
という、ただの諦めの心境からだと言ってもいい。
ただ、それが、
「本当に怒っていないのか?」
と考えた時、果たしてどっちなのか、人身事故が起こった時、絶えず駅員に文句をいう人から見れば、文句を言わない人を見るに堪えないと思うのだ。
「本当は起こっているのだが、かかわりたくないから、言いたい人にいわせておけばいい」
という、他力本願的な考えなのか。
それとも、
「別に怒りを感じない」
というような、
「聖人君子」
を決め込んでいる人なのか?
ということを考えると、普段文句を言っている人間からすれば、
「聖人君子などという人間が、本当にいるのだろうか?」
と思えるのだ。
確かに、これだけたくさんの人がいれば、一人や二人は、聖人君子のように、本当に怒りを感じないという人もいるかも知れない。
しかし、
「普通の人間だったら、自分が何も悪いことをしていないのに、被害を被るのだから、怒って当たり前だ」
と思わないのだろうか?
それが不思議で仕方がない。
「起こっただけで、損だ」
と思う人もいるだろう。
ただ、逆に、
「余計なストレスをためることになる」
ということで、怒りの矛先を、
「向けられるべき相手である鉄道会社の職員に向けてもいい」
と思ってもいいのではないだろうか?
ただ、
「いやいや、鉄道会社の人も被害者だから」
と思っている人がいるとすれば、それはどうなのだろう?
もし、これが、銀行などの、ATMトラブルだったとすれば、
「しょうがない」
で済ませられるというのか?
「今日振り込まないと、不当たりになる」
というところもあるだろうし、大きな問題になることは必至だと言ってもいい。
銀行職員は、苦情処理に追われ、コールセンターでは、苦情の電話がひっきりなしということになるだろう。
電話などで相手の顔が見えないとなると、苦情も言い放題と考える人だっているであろう。
「電車が遅れたくらい、自分にはさほどの問題ではない」
ということで、文句を言わないのかも知れないが、結局は、すべてが、
「自分には関係ない」
というところからきている発想なのだろう。
もっとも、自殺をするのに、
「どうして飛び込み自殺にするということなのだろうか?」
もし、残された人のことを考えるのであれば、
「飛び込み自殺だけは、ありえない」
といえるのではないだろうか?
なぜなら、鉄道法で、
「電車の走行を妨げると、賠償金を課せられる」
ということになっているからだ。
この場合は、
「止めた人間が死んだ」
と言っても、免れることではない。
家族にその賠償が求められ、しかも、これは法律で決まっていることなので、下手をすれば、サラ金よりも、やくざよりもたちが悪く、
「血も涙もない」
という状況になるだろう。
下手をすれば、
「身を売ってでも」
ということが当たり前と言ってもいいかも知れない。
自殺の理由
そんな時代、
「あまり最近、自殺が流行っている」
ということを聴いたことがあいと思っているところに、
「若い女性が自殺した」
ということが、ウワサとして聞こえてきた。
実際には、前の日に起こったことだということで、比較的新しい情報だった。
その自殺者は女の子で、まだ20代ということで、
「失恋でもしたのかな?」
という話になっていた。
実際に、失恋が原因だったということで、どうしてそれが分かったのかというと、遺書が残っていたということからであった。
今の時代で、
「失恋による自殺」
というのは珍しいのではないか?
と思われたが、そのウワサ話をしている人たちには、次々と浮かんでくる発想があるようだった。
「いやいや、その自殺をした人が、何かの精神疾患だったりすると、衝動的に自殺を試みるということも、普通にあるんじゃないかな?」
ということであった。
しかも、
「精神疾患であれば、その病気によって、躊躇うこともなく自分を葬ることになるかも知れない」
という人もいた。
作品名:自殺というパンデミック 作家名:森本晃次