自殺というパンデミック
という考えもあり、
二重人格というものの存在を何となくでも分かっていたとしても、それが本当にあるのかどうかという証拠は、比較的新しくならないと分からないことだったであろう。
だから、二重人格というものの正体を知っていたという学者も結構いたことだろう。
しかし、
「証明できないことをいくら唱えても、ウソつき呼ばわりされるだけで、納得できるものではない」
といえるだろう。
だから、
「二重人格」
というものを、
「善悪」
として考えたのであれば、それは、
「自分の中の考え方による、思うつぼだ」
ということになるのではないだろうか?
「納得できるできないで、物事を判断するのは、本当にいいことなのか?」
というのは、もう一方の性格が表れた時、初めて、
「ああ、理解できた」
と、本来であれば理解もしていないことが、やっと理解できたということになり、
「小学一年生の頭脳に戻って切った」
といってもいいだろう。
だが、一度、
「理解した」
と思い込んでしまうと、それまで理解できずに溜まっていたものが、まるで、氷が溶けて、雪崩となって流れていくというように、一気にまわりの人に追い付いてくるということになるのだろう。
その時期を通り越すと、今度は、理解よりも、頭の回転が、先に来るという性格が表れることで、
「自分が天才ではないか?」
という性格になるといってもいいだろう。
「理解する」
ということと、
「まずは頭の回転を信じる」
という発想が逆になることで、一気にその少年は天才肌となって、そのまま突っ走ることになるだろう。
「頭で理解する」
というのは、
「1+1=2」
という理屈を通り越してしまうと、そのハードルは二度と迎えることはない。
だから、ここで他の子に差をつけてしまうと、二度と追い付かれることはないということになるであろう。
だからこそ、
「二重人格で、変わり者に、天才が多い」
と言われるのではないだろうか?
それは、
「その子だけが特別に天才だ」
というわけではなく、
「もう一人の自分のどちらが、そのタイミングで現れるかということに掛かっているのではないか?」
と考えるのであった。
だから、
「二重人格というものを、精神疾患ではないか?」
という人がいたとすれば、それには反対なのだ。
ただ、その二重人格性というものが、どのような形、つまりはタイミングで表に出ることになるかということは、
「その人の運命を決める」
といってもいい。
だから、
「自殺をしたいという衝動に駆られる」
というのは、そのタイミングの違いからきているのかも知れない。
しかし、子供の頃であればいざ知らず、そんな発想を抱いていると周りから思われると、
「頭がおかしい」
であったり、
「変なやつ」
と思われてしまう。
つまりは、
「世間一般」
であったり、
「一般常識」
などという幻に操られることで、
「常識人」
と言われるような連中から、自由というものを許されない、凝り固まった発想に抱かれることになる。
それが、昭和の時代の、
「頑固さ」
というもので、
「今は行き過ぎかも知れないが、実に住みにくい時代になった」
とも言われるが、それも、元々は、そんな昭和の時代の悪しき伝統が、根強かったからだ」
といってもいいだろう。
それが、今の政府であり、
「過去の政治家が、先送りにしてきたり、分かっているのに、放っておいたツケというものが、今の時代に回ってきた」
といっても過言ではないだろう。
それを思えば、
「世間一般」
であたり、
「常識」
などという言葉は、本当に必要なのか?
と考えてしまうのだった。
そもそも、そういう
「一般」
であったり、
「常識」
というものを勉強だという勘違いから、
「一般常識」
という昭和からの狂った常識というものを毛嫌いするあまり、
「勉強というものも、同じ穴のムジナ」
とばかりに嫌ってしまうことと、昔の、
「詰込み教育」
と言われた、
「受験戦争の時代:
を
「ゆとり」
ということで、改善しようと思ったくせに、結局、カリキュラムがうまくいかないということで、今度は、
「教師のそのツケを押し付ける」
という片手落ちの形になり、不公平ができたということになる。
しかし、それは今に始まったことではなく、結局、旧態依然としたやり方が抜けられず、
「誰かに歪が寄ってしまう」
という、そんな教育方針から、それが、
「会社組織にまで影響する」
ということにより、
「結局、世の中というのは、同じところをクルクル回るだけ」
ということになってしまうのだろう。
ホスト殺し
自殺者というのが増えた中で、
「世界的なパンデミック」
というものが影響しているということは前述しておいた。
だが、実際の自殺の際に、
「別のパンデミック」
が水面下で影響しているということを知っている人は、それほどいないだろう。
しかも、それが、
「人災」
というものであり、どこかで、
「悪の組織」
なるものが暗躍しているということも、最近研究されるようになってきた。
特に、
「自殺というものが一件起こると、その近辺で数件が続く」
という、連鎖的なことが起こるということであった。
そのことを、感じている人はいるだろうが、
「まさかね」
ということで、すぐに否定してしまう。
特に、そんな簡単には信じられないということであれば、そういう発想をしてしまったのは、
「自分が悪いんだ」
ということで、それこそ、自分の精神疾患を疑うということになり、そんなことを考えた自分が悪いと考えるようになるのだろう。
そのことを、感じている女性が他にいた。
彼女は、名前を、
「河本いちか」
という。
いちかは、つかさの友達だった。
つかさが、ソープに働く時、話の間に入ったのが、このいちかだったのだ。
いちかも風俗嬢だった。彼女の場合は、
「デリヘル嬢」
をしていた。
店舗を持っているわけではなく、ネットなどで検索した客が、ラブホテルなどから、女の子を呼ぶという仕掛けであった。
客によっては、自宅に呼ぶ人もいたが、女の子の方のリスクを考え、
「自宅派遣はNG」
という子も多かった。
いちかもその一人で、
「ラブホテルでも、リスクが高いと思っているのに、自宅なんて」
というのは当たり前のことであった。
店舗型のお店であれば、サービスは完全個室であるが、少なくとも、店舗内なので、何かあれば、女の子がブザーをならすなどして緊急事態を避けることはできる。
しかし、これが、ラブホテルの一室ともなると、そうもいかない。そういう意味でのリスクであった。
そして、もう一つの大きなリスクは、
「身バレ」
という問題である。
店舗型の店であれば、待合室にいる間に、防犯カメラなどで、客を確認できるが、ラブホテルへの派遣ということになれば、部屋に入らないと、相手を確認することができず、身バレの危険性は一気に増すというものだ。
「それでも、デリヘルがいい」
作品名:自殺というパンデミック 作家名:森本晃次