自殺というパンデミック
だから、
「どんどん割って行っても、ゼロになることはない」
という理屈も同じことで、ただ、一つ言えることは、
「1+1=2」
ということを、理屈として理解できさえすれば、他の公式だって、その派生ということで理解できるのではないか?
と子供心に勝手に理解できるというものではないだろうか?
納得というのは。
「理屈で理解する」
という場合と、
「自分が納得できるということを、まるで忖度するかのように、まわりとの兼ね合いで納得する」
ということの両方から考えると、
「納得したふりでもいいので、先に進むという考えがあれば、あとから自分で納得できる時が必ずやってくる」
と考えたとすれば、
「数字が、規則正しく並んだものだ」
と考えれば、
「一旦理解できれば、これほど単純なものではない」
と思えるかも知れない。
だからこそ、
「最初のハードルが一番高い」
と思いさえすれば、
「次のハードルが納得できれば、さかのぼって、最初のハードルも超えることができる」
というものであろう。
要するに、
「見る角度の違いから、違う世界が見えてくる」
ということであり、それが、
「光と影」
であったり、
「昼と夜」
というような、
「相対的なものを理解できるようになる」
ということになるのではないだろうか?
二重人格というものが、いかに自分の性格に影響してきているか?」
ということを考えると、
「皆が皆二重人格で、それが表に出るか出ないか?」
というだけのことであり、
「表に出るから、理解しようと考える」
ということで、心の中では、無意識に、
「二重人格という性格は、決しておかしな性格ではない」
と思っているのではないだろうか。
だからこそ、
「もう一人の自分というのは、もう一人が表に出ている時には、眠っているような感覚で、意識がない」
ということになるのだろう。
そう、
「二重人格というのは、別におかしなことではなく、悪いというわけではない。むしろ、もう一人の人格が表に出てこない方が恐ろしい」
というもので、
「人間には、相対するものが存在し、それを無意識ではなく意識し始めると、その時に、二重人格というものを否定したくなるのではないか?」
と考える。
なるほど、
「二重人格というものが悪い」
と言われることがあるが、そのことを自分の中で理解できているのだろうか?
これこそ、
「1+1=2」
という理屈を分かりもしないのに、先に進んでいるのと同じではないか?
確かに、
「二重人格というものは、あまりいいイメージがない」
と言われている。
考え方が統一されていないと、人から信用されないなどということをいわれ、嫌われるということになるだろう。
しかし、本当にそうなのだろうか?
「相手の性格に合わせて、その人に合う性格の自分が出てくる」
ということであれば、何が悪いというのだろうか?
これも、
「自分で分からないうちに、無意識に相手に合わせている」
ということであり、相手に対しては、悪い印象を与えないということでは、いいことにならないだろうか。
無用な争いを避けるという意味では、最低でもいいことだと思うのだ。
しかし、
「本当の自分を隠して、相手と接するのは失礼だ」
という人もいるが、そもそも、
「その人の本当の性格というのは、どれなのだろうか?」
表に出ている性格だとすれば、人によっては、
「八方美人」
であったり、
「二枚舌」
などと言われて、あたかも周りを欺いているという印象を受けることになるのだろうが、
「じゃあ、嫌われるような性格をわざわざ表に出して、喧嘩になるようなことが、本当にいいのだろうか?」
というものだ。
性格が合わなければ、合わないで、それぞれの自分の性格というものが、噛み合わないまま。まるで、
「交わることのない平行線」
というものを理解できずに、ずっと合わせようとしても、それは時間の無駄であり、
「相手に自分を合わさせる」
という強引な考えは、相手に対しても失礼だということになるだろう。
それを考えると、
「1+1=2」
というものを理解できずに、それでも先に進むというのは、悪くはないことだと思う。
しかし、それを
「理解できないことを放っておくことはできない」
という思いを、
「他の人にはない」
と言い切るのは、大きな間違いというものではないだろうか?
その時たまたま、二重人格の片方である。
「納得できないことを放っておくことができない」
という方の性格が表に出ていただけだと言えないだろうか。
ただ、ほとんどの人が、
「納得のできずに先に進むことをよしとする」
という性格が表に出ていたのだとすれば、
「小学一年生の最初は、皆、
「納得できなくても先に進む」
という方が表に出ているのが一般的だということだったのかも知れない。
どうして、反対の性格が表に出てきたのかというのは分からないが、
「ただの偶然」
という言葉で言い表すには、安易すぎるということになるのかも知れない。
だから、人間には、その時々で節目があり、
「どちらが正しいというのかは分からない」
ということであるが、
「数の多い方が、一般的だ」
ということで、
「人間の性格というのも、多数決で決まっているのではないか?」
と考えると、
「民主主義の考え方に、多数決というのがあるのは、そもそもの人間の考え方の中の一つが、意識として、主義というものの根幹として考えられるようになったからではないだろうか?」
ともいえる気がする。
だから、
「人間は基本的には、多重人格で、その根底には、二つの性格がある」
ということで、
「それが、二重人格」
というものだといえるのではないだろうか?
だから、生きていくうえで、
「対照的なもの」
というのは、必ず存在していて、それが人間の中にある、
「二重人格性」
ということで悪いように言われているが、本当は、その本性ということで、決して悪いものではないといえるだろう。
もし、それを植え付ける何かがあるとすれば、人間の心の中に、
「多数決」
という精神が、本当は間違っているのではないか?
という思いが存在し、それが二重人格の中にあって、
「いつも影に隠れていて、表に出てこないものではないか?」
といえるのだ。
前述の、科学者が創造したと言われる、
「まったく光らない星」
であったり、
「路傍の石」
のように、
「二重人格のどちらかに存在していて、そちらが現れた時、まるで、それが正しいことだと言わんばかりに出てくるものではない」
ということだ。
だから、
「光を発することもない暗黒の物体であるにも関わらず、後ろの星が見えないというのが当たり前だということで、その星の存在を感じさせてしかるべきなのに、どうしても、その存在を感じさせない形にする」
という少々強引な発想ではあるが、理屈としては辻褄が合っているということになるのではないだろうか?
だから、
「二重人格というものを、悪くいうのは、あくまでも、何かの隠れ蓑ではないだろうか?」
作品名:自殺というパンデミック 作家名:森本晃次