自殺というパンデミック
という話は大げさであり、架空のお話ということで、小説としては面白いものであるが、それを現実だと考えると、
「これほど怖いものはない」
といってもいいかも知れない。
そういう意味で、自殺をしたつかさのまわりを探ってみると、どうやら、
「ホストに通っている」
ということが、裏でウワサになっているということであった。
確かに、
「ソープ嬢になる女の子の中には、ホスト狂いという人も多いというが、つかさもその一人なのだろうか?」
ということであった。
しかし、
「真面目で実直な彼女が?」
と考える人もいるだろうが、考えてみれば、普段から、
「真面目で実直を装っている」
ということであれば、
「自分の性格を抑えている」
という場合、その反動で、何をするか分からないという人もいるだろう。
それをまわりから見て、
「二重人格だ」
と見えたとしても、それは無理もないことだ。
どこかに、結界を持っていて、その結界が利いている時はいいが、それが決壊してしまうと、歯止めが利かなくなり、それこそ、ハイド氏が現れた時の、ジキル博士のように、
「自分は夢の中にいるのではないか?」
と思い、ハイド氏の存在を、しばらくは信じられないという気持ちにさせられるということではないだろうか。
そんな二重人格という性格は、
「誰にでもある」
といってもいいだろう。
いくら、実直でまっすぐな性格の人であっても、
「一つの方向しか見ずに、自分の考え以外をすべて否定するなどという人は、まずいないだろう」
というのは、
「裏表というものの存在を意識できているからこそ、ひょっとすると、すべてが表だと思っていることのうちのどこかが裏である」
ということに、気づいていないだけではないかといえるのではないだろうか?
つまり、
「無意識のうちに、裏表を理解している」
ということであり、それを裏表ではなく、
「それぞれ対象となるもの」
という意識でいるのかも知れない。
それが、世の中における、
「助け合っている対象のもの」
といってもよく、
「昼と夜」
あるいは、
「光の影」
さらには、
「月と太陽」
というように、それぞれが補い合っていて、それを、自然のことということで、必要以上に意識をしていないものといってもいいだろう。
だから、まるで、
「路傍の石」
のように、
「そこにあって不思議のないものは、意識することがないという状態だ」
ということになるのだろう。
それが、
「無駄を省く」
という意識とは少し違っているが、これを、
「合理的な考え方だ」
という理解の仕方をすれば、少なくとも、
「自分を納得させることができる」
といってもいいのかも知れない。
実際に、
「合理的な考え方」
というのは、あまり、いい意味に使われない時もある。
「頭が固い」
と言われ、
「強情だ」
と解釈されることもあるだろう。
ただ、その二重人格性というものは、
「正反対だ」
というわけではない。
ジキルとハイドであったり、躁鬱のように、
「裏表のような、対称的な性格」
ということであれば、そうなのだろうが、二重人格が、それ以外にもあるとすれば、
「まわりから見て、見えない性格」
というものが隠れているといってもいいだろう。
例えば、天体で、光を発するものということで考えた時、
「星というものは、自ら光を発するか、光を反射させて、自分の存在を他にアピールすることで光っているように見えるかのどちらかである」
と言われている。
しかし、ある学者が、創造した天体に、
「自分から光を発することもなく、光を発しているものに反射することもない星が存在する」
というものがあった。
つまりは、
「まったく光を発しない星」
ということで、
「近くにいても、その存在を認識することができない星がある」
というのだ。
だから、
「その星がいつぶつかったとしても、気がついた時には、死んでいた」
ということになる。
これは、実に恐ろしいことで、それが、今の時代の殺し屋だったとすれば、これほど怖いものはない。
発想とすれば、一種の、
「透明人間」
といってもいいだろう。
ただ、透明人間であれば、気配くらいは感じることもできるが、この星は、気配すら感じないのだ。
そもそも、物体に気配というものはない。
気配を感じるというのは、生き物が息をしていたり、自分の意志で動くということからであり、生命がなく、自分の意志で動くわけではないものに、
「気配というものはない」
といってもいいだろう。
気配のように感じるのは、
「目に見えているから」
ということで、実際に見えないのであれば、そこに、
「気配などという感覚が存在するわけもない」
ということになるだろう。
それを考えると、
「まったく見えない星」
というのは、気配もない。
ただ、一つ疑問に感じるのは、
「空に無数の星が煌めいているのに、その前の近距離に、光を発しない星というものが控えていれば、当然、向こうに煌めいている星の妨げということになり、影になった部分の星のきらめきが見えないのでは?」
と考える。
しかし、これも、
「都合のいいように考える」
ということであれば、
「この星に関しては、光と影という発想自体がそもそもないのではないか?」
と考えると、
「違和感がないと思わされる」
というのは、あくまでも、人間の錯覚だと思えば、
「見えるはずの後ろの星のきらめき」
というものが、
「実は錯覚ではないか?」
と言えなくもなく。それを考えると、
「錯覚というのは、限りなく先に進むもので」
まるで、合わせ鏡や、マトリョシカ人形のように、
「限りなくゼロに近い」
というものを象徴しているのではないか?
と考えさせられるのであった。
「どんなに小さく区切っても、決してゼロになることはない」
というのは、数学の世界では常識なのかも知れないが、普通に考えると、
「おかしい」
としか思えない。
しかし、人間というのは、それを簡単に受け入れるというものであるが、それは、小学生の一年生の時を考えてみれば分かるというものだ。
最初に算数で習うものは、
「1+1=2」
というももである。
この公式は、たぶん、
「こういう風になっているから」
ということを先生に言われて、
「ああ、そうなんだ」
と納得することで、そのハードルを越えることになるだろう。
しかし、本当に全員が全員、そのハードルを越えられるのだろうか?
中には、
「どうしてそうなるんだ?」
と疑問に持つ人だっているだろう。
確かに、素直に考えれば、
「これが理解できなければ、前には進めない」
と思うはずなのだ。
だが、理解できた人っているのだろうか?
つまり、
「人に納得できるように説明できるか?」
ということで、たぶん、
「素直だ」
ということが優先し、
「納得できるできないの前に、人が説明してくれていることを、素直に受け入れるというのが正しい姿勢だ」
とでもいうことであれば、理解しなくとも、ハードルを越えることができるというものだ。
作品名:自殺というパンデミック 作家名:森本晃次