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真実探求

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 お金に困っていると思わせてはいけない相手とすれば、この、
「本を出したい」
 と思っている人であったり、
「本を作るための協力企業や、宣伝のために使うという、支出先に当たる会社」
 そして、さらに問題は、
「融資をしてくれる銀行」
 ということになるのではないだろうか?
 それが、
「自費出版社系の会社」
 における、
「自転車操業:
 というものだ。
 これは、バブルの崩壊と同じで、
「誰も、いずれは崩壊する」
 ということに気づかなかったのであろうか?
 バブルの崩壊というものも、
「銀行の破綻」
 というものが、
「過剰融資」
 というものから始まったといってもいいだろう。
 しかし、あの時は、
「銀行は絶対に潰れない」
 という、
「銀行不敗神話」
 なるものがあり、
「まだ誰も、バブルの崩壊のようなものを経験していない」
 ということもあった。
 だが、それでも、世の中には経済学者であったり、経済を専門とする政治家や、財界では、
「著名人」
 と言われる人がたくさんいたはずなのに、
「誰も気づかなかった」
 というのだろうか?
 気づいていたとしても、誰も信じないような話を持ち出して、あたかも、
「オオカミ少年」
 のように、誰にも信用されず、精神異常者扱いをされてしまっては、溜まらない。
 下手をすれば、自分だけが悪者になってしまい、まるで
¥「それでも地球は動いている」
 と言った、
「ガリレオガリレイ」
 のようにならないとは限らない。
 それを思えば、
「自分だけが騒いでも、誰も信用してくれなければ、自分だけが悪者になってしまう」
 ということである。
 だから、
「下手に騒がない方がいい」
 というものである。
 実際に、その人だけが、
「バブルはいずれ弾ける」
 と言ったとしても、誰も相手にしてくれないだけではなく、下手をすれば、パニックになって、二次災害を生む」
ということになるだろう。
 もし、
「バブル崩壊」
 などということを口にすると、専門家の人たちが危惧するのは、
「二次災害」
 ということであり、
「二次災害を招く」
 ということが、その後に、本当にバブルが崩壊すれば、誰が、
「バブルは崩壊するべくして崩壊した」
 と思うだろうか?
「二次災害がなければ崩壊しなかった」
 ということをいうに違いない。
 理由はどうあれ、
「結果として招いてしまったことを、いかに責任逃れをするか?」
 ということが問題なのである。
 それを考えると、
「下手に騒がない方が身のため」
 ということを考え、
「分かっていたにも関わらず、それを世間に公表しなかった」
 ということであれば、理屈としては分かるというものである。
 それは、政治家だけではあく、マスゴミも同罪であろう。
「自費出版社系の出版社」
 というのも、
「そもそもが自転車総合」
 ということで、
「歯車が噛み合わないと、すべてが水泡に帰する」
 ということは分かり切っていることであろう。

                 やよいの過去

 実際に、
「本を出したい」
 という人がいる間は、
「自転車操業でもなんとかなる」
 というものであるが、
「本を出したい」
 と思う人が、ただのブームということであれば、
「永遠にできる仕事ではない」
 ということは分かり切っていることだろう。
 店舗経営というのは
「ブームに乗って店を開くところが多い」
 ということで、そうなると、問題は、
「辞め時」
 ということになるだろう。
 たとえば、
「たい焼きブーム」
 というものがあったとして、当然のように、街には、
「たい焼き屋」
 というものが増えてくる。
 これは、
「たい焼き屋というものが増えてきたからブームになったわけで、ブームになったから店がないとブームというのはなくなってしまう」
 であろう。
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 ということであるが、あくまでも、
「ブームに乗っかって店を出せば儲かる」
 ということから、皆店を開店するのであろうが、当然頭の中には、
「いつまでこのブームが続くのか?」
 ということである。
 となると、
「引き際が肝心」
 ということで、
「どこまで引っ張ればいいか?」
 ということになる。
 だから、ブームが去りそうな時を見越して、
「次に何がブームとなるか」
 ということを見越して、
「いち早く、乗り換える」
 ということになるであろう。
 それが、できないのであれば、
「ブームに乗っかった商売」
 というものはできず、
「地味にコツコツ、ブームや景気にあまり左右されないが、爆発的な儲けもない」
 そんな商売に精を出すということを考えればいいのだ。
 これは、
「物事は始めるよりも、どこで終止符を引くかという、引き際が肝心だ」
 ということになるであろう。
 これは、
「戦争などでも言われることであり、それこそが、かつての、大東亜戦争というものにおいても言えることではないだろうか」
 というのは、
「連合国である、勝者の国から押し付けられた民主主義」
 というものに洗脳されてしまったことで、なかなか事実として浮かんでこないことであるが、戦後生まれの人たちの受けてきた教育としては、
「日本という国は、大陸に進出することで、欧米列強から、侵略国呼ばわりされ、その制裁のために、経済制裁を受けたことから、無謀な戦争に突入した」
 というような教育を受けてきた。
 だから、
「大日本帝国は、侵略国なんだ」
 と言われ、
「侵略は悪いことであり、相手の自由や主権を奪う」
 ということで、
「悪いことだ」
 と教わったと思うが、歴史を正しく認識していれば、
「そもそも、アジアを侵略したのは、欧米列強ではないか?」
 ということである。
 幸いにも、日本は、欧米列強から、
「植民地」
 ということで侵略を受けなかったが、他の国は、
「宣教師を諜報員として送り込み、相手国内に混乱を巻き起こし、そこで、自国軍を鎮圧に向かわせることで、混乱に乗じて、植民地化する」
 ということを繰り返してきたではないか。
 アジアの国のほとんどは、
「第二次大戦後に、独立戦争を起こし、欧米列強からことごとく独立した」
 ということであったが、実際には、日本が欧米列強に宣戦布告をしたという。
 いわゆる、
「無謀な戦争」
 というのは、
「東アジア諸国を、欧米の植民地支配から解放し、アジアに、アジア特有の共栄のための秩序を建設する」
 ということから、
「大東亜戦争」
 と、閣議で決まったのだ。
 実に立派な、戦争大義といえるのではないだろうか?
 それを、
「教宮東国際軍事裁判」
 において、
「本来であれば、国家の責任を個人に押し付ける」
 ということをすることで、戦勝国にとっては、
「勝者の裁判」
 としなければいけないものを、戦争の大義を、
「大東亜共栄圏にもっていくことは許されない」
 ということだったのだろう。
 もっとも、この、
「政府の責任を個人に押し付ける」
 というやり方は、
「第一次世界大戦の戦後処理」
 というものの失敗からきているのだろう。
作品名:真実探求 作家名:森本晃次