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「車のヘッドライトは、昼間でも、薄暗ければつけることが多い」
という。
これは、運転手が見える見えないの問題ではない。
というのは、
「対向車に、こちらの存在を示しておいて、相手が、こちらが見えないことで、事故にならないようにするためにつけている」
といえるだろう。
これは、光とは直接関係はないが、
「マスクの着用」
というものにも言えることである。
特に、ここ数年、世界を震撼した、
「世界的なパンデミック」
というものが猛威を奮った時、
「マスク着用」
というものが、義務化された時期があった。
これは、実際に、義務化されることで改めて意識させられたことであったが、それはどういうことかというと、
「マスクというのは、自分が移らないというよりも、相手に移さないということのために着用する」
という意識が強いということである。
「確かに、ノーマスクの人が目の前でくしゃみをすれば、いくらこちらがマスクをしていても、思わずよけてしまったり、相手に対して露骨に嫌な顔をするものではないだろうか?」
マスクをしている人がくしゃみをすれば、まわりの人は、少しはよけるかも知れないが、
「マスクをしているんだから、しょうがない」
と思っても無理もない。
つまり、
「自分が移る」
ということよりも、
「人に移さない」
ということの方が大切なのであろう。
それを考えると、車のヘッドライトであっても、マスクであっても、
「問題は、相手に対してということを考えるためのものなのである」
それなのに、
「一切光を発しない」
あるいは、
「まったく気配を表に出さない」
などという、
「路傍の石」
のようなものの存在は、
「まったく光を発しないわけだから、影になるわけでもない」
ということで、
「宇宙空間では、色も光も分からない」
ということで、
「光が途切れる形になっても、その星の存在は分からない」
ということになる、
つまりは、
「光がなければ影もない」
それこそ、忍者などに言われるような
「光あるところに影あり」
という言葉の反対を意味していて、
「逆も真なり」
ということになるのだろう。
そういう意味で、自然というのは、
「バランスで保っている」
といってもいいだろう。
そのバランスこそが、
「自然の摂理」
というものであり、
「自然界の循環」
ともいえる。
それが狂うと、バランスが崩れ、ある生物が絶滅したことで、その天敵となる生物が、異常発生するということになる、
しかし、結局、異常発生した動物もいずれは餌がなくなるということになる。そもそも、その餌になる種族も、それ以前に、食べられてしまい絶滅することになる。
逆にいえば、餌になる種族がまだ生きながらえていたのであれば、大量発生した動物の餌が切れることはないというわけである、
それが、
「需要と供給」
ということであり、それがバランスとなって、世界を支えている。
そう考えると、
「世の中で、不老不死なる薬ができたとしても、それは、自然界のバランスを崩すというものであって、決して、人間のためになるというものではない。、むしろ、自然界を崩壊させるものということで、成就しないもの」
と言ってもいいだろう。
世の中には、逆に、
「存在していなければならない悪」
と呼ばれるものがある。
いわゆる、
「必要悪」
と呼ばれるものであるが、
「罪悪といえるものなのだが、存在しないと、逆に困ることが起こる」
と呼ばれるもので、それこそ、
「人間界」
あるいは、
「自然界」
というもののバランスを崩すといってもいいのではないだろうか?
前述の、
「光と影」
というものが、その、
「自然界のバランス」
というものであるかどうかというのは、実際に判断に難しいといえるのではないだろうか?
しかも、前述のように、
「歴史というのは、循環している」
といわれている。
「確かに、時系列として、一直線に進んでいるように見えるが、実際には、ぐるぐる回っているものなのかも知れない。
それが、一種の、
「螺旋階段」
のようになっていて、まったく同じ角度で大きく迂回している場合であったり、トンネルの中を長く走っていて、途中まで上り坂であったとすれば、その途中から感覚がマヒしてきてしまい、まっすぐに進んでいるかのような錯覚を起こすことだろう。
だから、途中から、上り坂が、平地を進んでいるかのようになると、まるで。
「下り坂に差し掛かった」
というような錯覚に陥ることになる。
だから、時系列だって同じことで、螺旋になっているコイルの中にいるということを意識していないとすれば、錯覚から、まっすぐ進んでいないものを、まっすぐに進んでいるという勘違いをするだろう。
例えば、長年にわたって信じられてきた。地球の形も、
「地球というものが丸い」
と分かるまでに、かなりの時間が掛かっただろう。
しかも、
「地球は丸いんだ」
ということを洗脳されても、感覚が平地にいるわけなので、簡単に、
「信じろ」
といって、誰が簡単に信じるものだろうか、
それでも、
「地球は丸い」
と思いながらも、水平であることに違和感がないのは、
「洗脳されている」
というよりも、
「人間は錯覚を引き起こすものなんだ」
という思い込みからきているのかも知れない。
逆に、これが洗脳だというのであれば、
「洗脳というものが、人間に錯覚を引き起こさせることにある」
ということになるのだろう。
そういう意味での、
「光と影」
という発想であろうが、
「正義と悪」
という発想であろうと、
「人間というものが、錯覚を起こす」
ということから出てきたものだということになるのだろう。
要するに、
「正対するものが、錯覚を起こす」
ということなのかも知れない。
世の中というのは、
「何が起こるか分からない」
といわれている。
今まで、順風満帆に生きてきたと思っている人も、意外と本人が分かっていないだけのことで、気が付けば、それは錯覚であり、まわりからは、
「波乱万丈の人生」
とみられていることに、まわりの目を見ることで気づかされるということだってあるだろう。
逆に、
「苦労ばかりしている人生だ」
と思っても、実際には、
「他人に比べれば、まだまだ甘い」
ということだってあるだろう。
それがどのようなものなのかということを考えると、
「顔から火が出るくらい恥ずかしいことだ」
と思うことだろう。
そういう意味で、
「錯覚というのは、怖いものだ」
ということであり、それが、自分に対して、まわりが感じることだと思うと、余計に気になるというものである。
確かに人間、
「いつどこで何が起こるか分からない」
それが、
「生きている証だ」
といってもいいだろう。
特に、
「人間は、一人では生きられない」
といわれ、だから、人に気を遣ったり、人のために何かをするということが大切だと言われたりする。
「働く」
という言葉があるが、これは、
「傍が楽をする」
ということから来た言葉だと言われている。