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「クーデターを起こした連中が、本来は、君主のために行った維新のためのクーデターが、その君主から、反乱軍としての攻めを追い、結果、クーデターの失敗」
ということになったのだが、その時にクーデターを起こした一人が言ったセリフがあった。
「歴史が必ず答えを出してくれる」
ということであった。
そもそも、
「歴史が答えを出してくれる」
というが、答えが分かっていないのだから、あくまでも、
「答えは、求めている人間の考え方に沿うものでないと、答えとは言わない」
というものではないだろうか。
つまり、この場合のクーデターというものであっても、
「クーデターという言葉と、反乱軍という言葉では、考え方がそもそも違う」
ということで、
「クーデター」
というものは、その言葉のニュアンスで、成功した場合は、いい意味で取られるものであり、失敗すると、
「反乱軍と同意語」
ということになるだろう。
つまり、
「クーデターという言葉は、その転んだ方向によって、いかようにも、解釈できるが、反乱軍というのは、悪い意味でしか用いられない」
といってもいいかもしれない。
確かに、反乱軍でも成功すれば、正義となるのかも知れないが、あくまでも、
「反乱を起こした」
という意味で、正当性はない。
あくまでも、
「勝てば官軍」
というだけで、その時は立場が強いかも知れないが、決して、認められたというわけではないだろう。
「歴史が出してくれる答え」
というものであっても、それが正しいのか間違っているのかは、解釈次第だということであれば、その正当性を求めることはできない。
それだけ、歴史に、正誤の解釈があるとすれば、その答えは、
「永遠に知ることはできない」
といっていいのかも知れない。
結果として、求められる答えが、そこにあるのかどうか、誰が分かるというのか。
それこそ、
「どこを切っても金太郎」
という金太郎飴ではないが、同じものが出てくるのであれば、正義は果てしなく見えてこないということであろう。
逆に、
「切った時に見えるものが正義だ」
ということであれば、こちらも信憑性がない。
「作られた正義」
という感覚になってしまい、そう考えると、
「正義とは、自分にとって都合のいいものをいう」
ということだと考えると、結果として、
「勝てば官軍」
という言葉も、正当性という意味では間違っていないだろう。
「そこに、答えは存在しない」
と考えると、
「正義は存在しない」
ということになり、それでも、正当性というものを求めるのであれば、
「勝ったものが官軍」
ということで、無理矢理にでも、勝ち組を正義とするしかないだろう。
「まさか、負けたものを正義」
ということにするわけにはいかない。
そうなると、すべての競技は否定されることになる。
少なくとも、正義を決めるには、勝負というものが必要になるのではないだろうか?
世の中には、
「弱肉強食」
という言葉があるが、
「強いものが正義だ」
ということにすれば、
「負けたものが浮かばれない」
ということになるかも知れない。
しかし、物事はそうはいかない。
確かに、負けた者にも人権であったり、その存在意義を認めるという考えはありだろうと思うが、
「勝ち負けで正悪を求める」
という考えが間違っているといえるのだろうか。
「勝負事というのは、勝つために行うわけであり、負けるために苦しい鍛錬を重ねているわけではない」
「勝ち負けは時の運」
とも言われるが、その運を味方につけるのも、正義といってもいいだろう。
勝負をして勝ったものが正義ではないということになれば、そもそも、勝負をつけるといいうことの存在意義すらなくなってしまうといえるのではないだろうか?
勧善懲悪という言葉を否定するわけではないが、それはあくまでも、
「弱い相手に加勢することで、力の均衡を保つ」
ということであれば、それは悪いことではない。
しかし、実力差があることが分かっていて、それでも相手が挑戦してくるのであれば、それは、
「公平な勝負」
とみなすべきで、
「百獣の王ライオンは、ウサギ一頭を倒すのに、全力で立ち向かう」
というではないか、
それを、美談のように言っているくせに、弱肉強食で、弱いものをひいきするという考えは、それこそ、日本人の伝統的な考えといってもいい、
「判官びいき」
というものに由来するだけのことであろう。
しかも、
「弱肉強食」
というのは、
「自然の摂理」
というものであり、
「強いものが弱いものを食べたり。栄養にすることで、その力関係が、大自然を動かしているということであり、自分たちの天敵が、いなくなればいいなどということで、天敵がいなくなってしまうと、今度は、食われるべき、自分たちが食われなくなり、その数がどんどん増えるということになる」
と考えた時、次に考えることとすれば、
「じゃあ、食料は賄えるのか?」
ということである。
考えてみれば、
「日本にだって、食料がなく、食事がまともに食べられないという時代をずっと乗り越えてきたではないか。太古から続く、飢饉であったり、戦後の食糧難など。その例であろう」
あるいは、
「満州事変も、増加一方にある人口問題解決のためだった」
といわれる。
何といっても、
「楢山節考」
などというものを考えれば、
「家族を養っていけないので、ある程度の年齢になれば、食い扶持を減らす目的で、山に捨てに行く」
という、
「姥捨て山の伝説」
というものと同じことになるのだ。
つまり、
「人口が増えるというのは、悪い面もある」
ということだ。
この世の中で、食事も摂れずに食糧難になるのは、日本では、すぐには想像もつかないかも知れないが、時代が違ったり、同じ時代でも、地域が違えば、
「正悪などという生易しいことはいっていられない」
ということになるであろう。
もっと言えば、
「長所と短所は紙一重」
というではないか。
世の中には、正義もあれば悪もある。
そして、
「正義があるから、悪も存在する」
ということであったり、その逆に、
「悪があるから、正義がある」
といえるだろう。
つまりは、
「正義がなければ、悪は目立たない」
「悪がなければ、正義というのも見えない」
といってもいいだろう。
「光と影」
という発想と同じで、
「天体の世界」
に言えることではないだろうか。
「星が煌めく」
といわれるが。
「星というものは、自らが光を発するか、光を発するものに照らされて、反射することで光っているように見せる」
というものだという。
それが、
「恒星」
であり、
「惑星、衛星」
と呼ばれるものだということだ。
そんな中で、
「ある天文学者が創造したと言われる星に、自分から光を発することもなく、光を反射せずに吸収してしまうということで、まったく光を発しない星」
というものがあると言われている。
この星は、まるで、
「路傍の石」
といわれるもので、
「車のヘッドライト」
と同じ役目を果たさないといってもいいだろう。