表裏の性格による完全犯罪
せっかくの三人の空間を壊したくないという思いであるが、
「店のスタッフとしては、いけない考えだ」
と分かっていても、どうしても、
「ドキドキハラハラ」
を拭い去るということはできないのであった。
「それにしても、坂上さんは、何をじれったいことをしているんだろう?」
とつかさは思った。
「真面目でお調子者」
ということで、
「お調子者」
ということであれば、もっと早く、自分の言いたいことを口にするのだろうが、真面目な性格から、
「話の内容が内容なだけに、なるべく、はぐらかすようにして話をするというのが、この人の性格になるんだろうな?」
と考えた。
しかし、それは、
「話す相手によって、変わることではないのかな?」
とつかさは感じているようで、その相手が、
「几帳面なところがあって、おおざっぱでウソをつきやすい」
という相手である、酒井に対してであれば、どうなのだろう?
几帳面な性格の人であれば、苛立ちを感じるかも知れないし、その反面、
「ウソをつくという、狂言癖のある人を相手にセンシティブな話を、ごまかすように話そうとしているのであれば、相手に対して、そのウソの話を提供しているようにも感じさせる」
ということになる。
もっとも、
「狂言癖を持った人間には、いろいろな種類があるのでは?」
と、つかさは最近感じるようになった。
狂言癖、つまり、
「ウソつき」
ということを最初に考えた時、一番に思いつくのは、
「オオカミ少年」
という話だった。
「オオカミが来た」
といって、騒いでいるうちに、誰も、その話を聴かなくなり、その少年を、
「ウソつき少年」
というレッテルを貼って、誰もいうことを聴かなくなった。
という間に、本物のオオカミが来て
ということで、
「結局、皆食われてしまった」
ということである。
「この場合の教訓というのは、何になるというのだろう?」
と思うのだ。
基本的に考えられるのは、
「ウソをずっといっていれば、誰も信用してもらえなくなる」
ということであるが、その場合は、
「少年が悪いのであって、村人は、悪いわけではない」
ということになる。
しかし、実際には、
「村人は、オオカミが来たということを信じずに、そのために、オオカミに食われてしまった」
というのであれば、
「教訓が生かされていない」
というどころか、
「ウソつき少年のいうことを信じなかった村人が悪い」
ということになるのであって、そうなると、この場合の教訓というのは、
「ウソかも知れないことでも、絶対ではない」
ということで、信じ続けなければならないということになるのであろうか?
それは、何か違う気がするのだ。
となると、
「この話には裏があって、その裏が、教訓になるのではないか?」
と考えられる。
それこそ、
「長所と短所は紙一重」
ということになるのではないだろか?
というとこで、まずは、
「大前提」
というおのがあるということで、
そもそも、このお話は、
「オオカミ少年」
という少年に、狂言癖があるということから始まっている。
そして、
「狂言癖」
つまりは、
「ウソつきというのは、罪悪だ」
ということが大前提になっているのだ。
その大前提の下にこの話を考えるから、
「何度もウソをついているうちに、信頼してもらえなくなり、オオカミが来ても信用してもらえない」
というところまでは、理論的にも間違っているわけではない。
しかし、問題は、その時に、
「少年が食べられてしまったが、それを村人は分かっていながら、少年を見殺しにしてしまった」
ということであれば、まだわかる。
「ウソをつくと、どのようなひどい目に遭うか」
ということの戒めになるからだ。
だからと言って、少年だけでなく、村人善人が食べられるということになれば、それこそ、
「オオカミの一人勝ちではないか」
ということになる。
「この場合の人間に正当性はないということなのか?」
ということになるわけで、そうなると、
「大前提自体が違っている」
という考え方も出てくるのではないだろうか?
どういうことなのかというと、
「ウソというものは、確かに正しいことではないというのが、一般論なのかも知れないが、考え方として、嘘も方便というではないか?」
ということで、
「他人のためになる」
というウソをつくということだってあるだろう。
そういう意味で、
「ウソというものがすべて悪い」
というわけではない、
この
「オオカミ少年」
という話は、そのことを言いたいのではないだろうか?
となると、
「長所と短所」
というものは、見る人によって、
「長所が短所に見えたり、短所が長所に見えたりする」
ということで、
「長所と短所というものを、それぞれ比較して考えれば、見え方がどうであれ、その人の全体的な性格を見誤ることはない」
といえるのではないかと考えたのだ。
しかし、それでも、長所と短所を見誤ると、その時々で、他の人との見え方が違ってくるということで、
「あいつは、いい人だ」
という人もいれば、
「あいつは、悪い奴だ」
という人もいる。
それを、
「見る人の、その人の感覚だ」
と思っているかも知れないが、
「実際に見え方というものの角度が違っている」
ということからも、相手を見る目が変わってくるといっても過言ではないであろう。
つかさは、そのことを最近になって気づくようになった。
だから、
「長所と短所を気づくようになったのか?」
それとも、
「長所と短所を気づくようになったから、人の見方というものが、その角度によって違うものだ」
ということに気づいてきたということになるのか?
と考えるようになったのであった。
つかさという女性は、自分のことを、
「男性的な考えを持っている」
と考えるようになった。
というのは、
「理論的に考えるからだ」
と感じていたが、心の中では、
「それは、男性女性という区別ではないのではないか?」
と考えたのだが、それは、最近よく言われている、
「男女平等」
という観点からであった。
ただ、その、
「男女平等という観点を、はき違えている人がかなりいる」
とは思っている。
二十一世紀になった頃から、
「男女雇用均等法」
などというものができてきて、
「男女は平等でなければいけない」
などという、どこか宗教的な発想を持った女性が増えてきたといってもいいだろう。
しかも、その発想に、
「集団意識」
なるものが絡んでくると、それこそ、
「宗教団体のような、この発想こそが、聖なる理念だ」
という思いに凝り固まっているということであった。
「自分は女性であるが、そういう凝り固まった考えは承服できない」
とつかさは感じていて、
特に、今まで、
「男女で差別的に使われていた職業などの表現」
というものを辞めようと言い出したのは、
「やりすぎではないか?」
ということであった。
たとえば、
「看護婦を看護師」
「スチュワーデスを、キャビンアテンダント」
「保母を保育士」
という言い方で、
作品名:表裏の性格による完全犯罪 作家名:森本晃次