洗脳による変則事件
ということで、考えてしまうと、
「せっかくの考える時期」
というものを見失ってしまうということになるであろう。
それを考えると、
「松の内が明けるくらいまではしょうがないが、それ以降は、気合を入れないといけない時期」
ということになるだろう。
しかし、受験生というと、そうはいかない。
実際に、年を明けると、すでに、受験期間に入ってくるというわけだ。
しかも、この時期というのは、いろいろな問題があったりする。
「豪雪などで、交通機関がマヒする」
などということで、
「試験に遅刻する」
ということであったり、
「間に合わなかった人は、後日試験」
ということで、その日に向けて体調を整えていたものが、すべて、水の泡だということになってしまうのだ。
この時期を受験生として過ごすのは、まだ若い頃で、子供が大人になりかかる。
「思春期」
という時代に、受験というものを経験することになる。
思春期というものは、精神的にも肉体的にも、大いに変化をもたらすというもので、
「受験の時期に感じたものが、自分の中でトラウマ」
となり、人によっては、
「この時期が、受験戦争の苦しみのトラウマとなってしまう」
ということで、
「社会に出ても、この時期になると、受験の時の苦しみが忘れられず、睡眠不足になってしまう」
という人も多いだろう。
しかも、
「花粉症の時期」
というものと重なって。鼻が詰まったりすることで、頭痛であったり、熱っぽさから、意識が朦朧としてくることであろう。
それを考えると、
「受験の時期に花粉症にならなかった」
という人が、就職すると花粉症になったということもあり、それが、
「社会に出ての油断に繋がったのではないか?」
と思えたのだ。
しかし、油断というのは、語弊があるだろう。
大学受験というのは、それなりに厳しいものだというのは当たり前のことであるが、社会に出てからの競争は、
「答えがあり、成績がハッキリと結果」
となって現れて、自分で、あとから、
「検証できるものだ」
ということになるといえるのだろうか。
それを考えると、
一人の女性が、その時、
「いつもと違う道を通って帰宅した」
というのも、
「頭がボーっとしていたからだ」
といってもいいのだろうか?
彼女は、会社を出てから、いつものように、保育所で、娘を引き取ってから、帰宅の途についていたのだ。
保育園は、駅近くにあり、その駅から電車に乗って会社に通う彼女としては、まず、
「家と保育園の間が、一つの難関だ」
と思っていた。
バスに乗っていくわけで、
「車の運転ができない彼女であり、しかも、会社の近くには、これと言った駐車場はない」
ということで、
「結果として、バスの混雑も致し方がない」
ということであった。
彼女は、離婚経験者であった。
離婚の原因は明らかに夫側にあり、
「夫の浮気」
というのがその原因だったのだ。
浮気をした相手は、実に地味な女性で、彼女とすれば、
「まったく自分と違う相手をわざわざ選ぶなんて」
とばかりに、逆上していたのだ。
ただ、最初は、
「浮気くらい、別にいい」
というようなことを、近所の奥さんにはうそぶいていたので、
「あの奥さんが、ここまで、うろたえるとは」
ということで、まわりの人もびっくりしていたのだ。
「奥さんにとって、結婚というのは、どういうことだったの?」
と他の奥さんから聞かれても、彼女は頭を傾げるばかりで、何も答えなかった。
「あれは、本当に分かっていないんじゃないかしら?」
ということであった。
しかし、
「結婚というものを、ハッキリと分かっている人って、本当にいるのかしら?」
ということをほとんどの人はいうことだろう。
だから、
「浮気って、そんなに楽しいものなのかしら?」
というほど、浮気というもの自体が、yく分からないのだ。
「浮気を分からないわけだから、結婚というものを分かるはずもない」
ということである。
特に、昔は、
「成田離婚」
という言葉があったではないか?
ということで、
「結婚という言葉」
よりも、
「離婚という言葉」
の方が、まず気になるところだ。
ということであるが、今の時代は、
「離婚というよりも、結婚ということの方が、厄介に感じる」
というものだった。
それは、
「以前が、結婚というものが当たり前で、離婚が珍しかった」
ということであり、逆に今では。
「離婚というのは当たり前にするもので、離婚するのに、なぜ結婚してしまうのか?」
ということだと考えると、
「逆も真なり」
という発想になってしまうということであろう。
特に、
「成田離婚」
などという言葉が巷でささやかれるようになると、
「離婚など当たり前
「バツイチという方が実はモテる」
などと言われ、
「離婚が当たり前」
という時代になってきた。
だから、まわりに、
「離婚」
ということを人に話すと、
「お前はまだ若いから、やり直しがいくらでも利く」
と言われるのだ。
その昔、昭和の時代であれば、
「離婚なんかすれば、戸籍に傷がつく」
と言われたり、
「女性が実家に帰ると、出戻り」
などと言われ、家族から、
「お前のような出戻りは表に出せない、家族の汚点だ」
とまで言われ、
「家から出ることも、憚られる」
というくらいであった。
もし、妹がいたりすれば、
「姉ちゃんが出戻り」
ということになると、
「そんな妹とお前はもらうというのか?」
ということで、妹の結婚にまで影響した李する。
しかし、平成以降の、
「成田離婚」
などと言われた時期から、
「早く相手の悪いところが分かってよかった」
ということであったりすると、
「そもそも、結婚しない方がよかった」
と考えるようになるだろう。
しかも、
「離婚率が結婚よりも多い」
ということになると、
「どうせ、離婚するんだから」
というマイナスの考え方になり、
「結婚することが何になる」
ということになる。
そうなると、
「結婚しない男女が増えてきて、結婚適齢期という言葉が、まるで、死語ではないか?」
ということにあるというものだ。
確かに、結婚適齢期というものは存在した。そして、
「本当に結婚したい」
と思う時期だったのだということだが、それが本当に、
「結婚したい時期ということだった」
ということなのか。それとも、
「結婚しないといけない」
という時期だったのかということだ。
ただ、女性の場合は、
「高齢出産」「
というものが問題になる。
だから、
「身体自体が、適齢期だと感じさせるという、本能のようなものだ」
ということになるのではないだろうか?
「結婚というものは、何のためにするんだろうか?」
と考えさせられるというものだ。
そんな離婚という問題を、いとも簡単にやってのけ、それを、知り合いの女性たちに、
「私は、離婚したおかげで、今は自由になれて、楽しい毎日を送っている」
とうそぶいている女がいた。
彼女は、名前を、
「樫沢琴絵」