洗脳による変則事件
そんな琴絵を、
「中途半端な状態の夫婦関係を続けている、恵三とゆり子は、それぞれに、まったく違う角度から見ている」
ということであり、
それは、まるで月食か日食のように、
「琴絵の存在が邪魔をして、夫婦間で見えるべきものが見えなくなってしまっているのではないか」
と感じるのであった。
それは、
「夫婦そろって感じる」
ということであり、それを相手も感じているということが、分かるというのは、実に不思議なことであった。
そんな関係が、どれほど続いたのだろうか。
二人とすれば、
「数か月くらいのものだったのではないか?」
と思っていたが、何と、実際には、数年が経っていた。
さつきの死というものが、
「世界的なパンデミック」
というものが、日本に忍び寄ってきているという時期くらいだったのに、すでに、今は、
「猛威は去った」
という時期に来ていたのだ。
ここまで、約3年が経っていた。そこから、少し安定期というものがあって、それを含めると、
「そろそろ4年」
というところまで来ていたのだ。
この期間に何があったのかというと、正直、
「何もなかった」
ということになるだろう。
政府であったり、国家としては、いろいろもめごとも多く、パンデミックに対して、
「ああでもないこうでもない」
と一喜一憂をしていたのだが、
「過ぎてしまうと、何もなかった」
という時代だったようにしか思えないのだ。
「そんなことをいうと、死んでいった人に申し訳ない」
という人もいるが、果たしてそうだろうか?
死んでいった人は気の毒ではあるが、それよりも、
「残された人間」
という人たちであろう。
彼らは、もちろん、死んでいった人を忘れるなどというと、怒るかも知れないが、結果としては、誰を恨むこともできないということで、
「忘れることはできないだろうが、必要以上に気にすることもない」
というのが本音であろう。
恨むとすれば、
「対策として、まったく効果のないものしか示すことができず、すべてにおいて、後手後手に回ってしまったことでの責任を考えると、政府しかないだろう」
ということになる。
しかし、政府を恨んでみても、
「死んだ人が生き返るわけではない」
ということに気づくと、
「誰を恨むということもできない」
ということになる。
そうなると、死んでしまった人を悲しんで、過ごしてきた時間。それが、
「あっという間であった」
ということを感じる。
政府や、マスゴミが、あれだけ、いろいろ煽っていたが、過ぎ去ってしまえば、
「あれは何だったんだ?」
ということで、国民も忘れ去ってしまうものだ。
それは、
「人のうわさも七十五日」
と言われるということよりも、本当に、意識が薄れていくのである。
その原因の一つに、
「政府の政策というか、思惑のようなものがある」
ということなのかも知れない。
それはなぜかというと、
「検証というものをしない」
ということからであろう。
確かに、
「未知のウイルス」
ということで、実際に猛威を奮っている頃は、後手後手に回ったといっても、しょうがいないだろう。
しかし、今ではある程度分かっていて、今なら、学術的にいろいろな調査もできることだろう。
だが、その検証を行っているという話は聞こえてこない。
「ランクを引き下げた」
という時点で、それまでとは打って変わって、マスゴミは、まったく騒ぐということをしなくなった。
というのも、政府から、
「もう騒ぐな」
とくぎを刺されているからなのかも知れない。
政府がくぎを刺すということの理由は分かり切っている。
要するに、
「金がない」
ということであろう。
パンデミックの猛威の間、政府はかなりの金を使った。
「医療費も、ワクチンもすべて政府持ち」
人流抑制のために、
「緊急事態宣言」
であったり、
「蔓延防止対策」
などということで、店や企業に、
「休業要請というものをしたが、そのための保証金を政府が出す」
ということで、政府に金がないのは分かる。
しかし、それも、結局は、グダグダになり、
「本当に保証金が適正に出されたのか?」
というのも怪しいものである。
もっと言えば、
「政府の金というのは、そもそも、国民が出した税金ではないか?」
ということである。
政府が適正に使っていれば、このようなパニックになった時、慌てることなどないはずである。
何といっても、税金は、どんどん上がっていき、本来であれば、税金として使われるはずの、社会福祉は、どんどん、国民を締め付けることになっている。
その一方で、
「政治家の裏金」
「贈収賄事件」
などというのが後を絶たない。
ということは、
「国民に使われるはずのお金を、政治家が食いつぶしている」
ということになるのだ。
だからと言って、国民は、政治家のせいだけにはできない。
何といっても、
「そんな政治家を選挙で選んだのは、我々国民なのだから」
ということになるのだ。
これが民主主義であり、
「本当にそれでいいのか?」
と思えてならないのであった。
4年近くも経っているのに、
「感覚として数か月しか経っていない」
というのは、
「何かやりたいということがあるのだが、それを決めかねてしまったことで、気が付けば、数年経っていた」
ということになる。
それは、
「一度決意をして、それが機会を逸することで、また、改めて決意を持たなければいけなくなった場合、なかなか、思い切ることができない」
という人間の性質というものに由来しているのではないだろうか?
特にそれが、
「自分の一生を左右することであったり、その思い切りが、覚悟というものであったりした場合」
ということで、例えば、何度もリスカなどの自殺を試みる人が、
「手首に何度もためらい傷を残している人がいた」
という時、
「死ぬ結城なんて、そんなに持てるものじゃない」
といっている人がいたが、よく考えると、
「だったら、何度もどうして、そんなにためらい傷があるのか?」
と言いたくなるが、それ以上のことを口にすることはできないのだった。
ためらい傷というものを見ていると、
「何度も自殺をしようとした」
と思うのだが、それだって、死ぬ勇気がないから、何度も残っているわけであって、本気で死ぬ気であれば、一発で楽になっているということであろう。
確かに、
「何度も死ぬ勇気を持てない」
という言葉に信憑性のある行動であることに間違いはないということになるのであろう。
この数年、
「時期を待っていた」
というよりも、
「勇気を持つことができずに、心の中に、ためらい傷を無数に作ってしまっていた」
といってもいいだろう。
それは、ゆり子の中で、
「年輪のようなものだ」
と感じていた。
これは、自分にとって、
「都合のいい考え方」
といってもいいだろう。
だが、その期間、実際には、
「自分の中で平和だった」
といってもいい、
実際には、
「パンデミックによって、世の中は混乱していて、行動も自由にならなかった」