もう一人が犯人
というものを、標準に装備する時代になったのである。
それこそ、
「動く防犯カメラ」
ということだ。
だからこそ、昔のような、アリバイトリックは簡単に成功しない。
それこそ、
「犯罪者からすれば、犯行を起こしにくくなった時代」
といえ、さらに、推理小説作家からすれば、
「トリックが通用しなくなった」
と言ってもいいだろう。
ただでさえ、かつての探偵小説の時代から、
「たいていのトリックは出尽くしているので、あとは、そのバリエーションでしかない」
ということであった。
さらに、探偵小説で面白いこととして、
「最初から、分かっている」
というトリックと、
「トリックの種類が分かってしまえば、その時点で、小説家の負け」
というトリックが存在する。
「最初から分かっている」
というものとすれば、
「死体損壊トリック」
「密室トリック」
「アリバイトリック」
などがそうであろう。
トリックは分かっていないといけないが、基本的にその内容が分かれば、それが事件の解決につながるので、それは最後まで分かるわけにはいかないということであろう。
あと、
「分かってしまえば、作家の負け」
というものとしては、
「一人二役トリック」
であったり、
「叙述トリック」
のようなものがそうであろう。
「一人二役」
というのも、
「叙述トリック」
というのも、最初から分かっていないということで、こちらこそ、本来の、
「トリックを解き明かす」
ということの醍醐味であろう。
最初から分かっているトリックの場合は、
「謎解き」
ということになると言ってもいいのではないだろうか?
そんな探偵小説を、坂本はずっと読んできた。
「刑事にでもなるか」
と考えたのも、その一つであった。
しかし、昔の、
「探偵小説」
と今の時代の、ミステリーであったり、推理小説というのは、まったく違う。
やはり、時代背景の違いというのは、かなり大きいと言ってもいいだろう。
特に、探偵小説の時代というと、実に時代が混沌としていた。。
「何が起こっても不思議はない」
という時代でもあった。
だから、当時の探偵小説には、
「本格派探偵小説」
というものと、
「変格派探偵小説」
と呼ばれるものの二つが存在するということであった。
「本格派探偵小説」
というのは、あくまでも、
「探偵や著名な謎解きを行う人が登場し、トリックや謎解きを明快に行い、犯人を追い詰めるというようなお話」
ということで。
「変格派探偵小説」
というのは、
「本格派と呼ばれるもの以外」
という、さぞや曖昧な話だったりするのだ。
その中には、
「猟奇犯罪」
であったり、
「異常性癖」
という事件であったり、
「耽美主義」
と言われる。
「道徳やモラルに関係なく、とにかく、美というものが、最優先する」
という考え方である。
つまりは、
「犯罪を芸術に仕立て、例えば、お花畑に死体を飾る」
などという犯罪は、
「耽美主義」
といってもいいだろう。
だから、
「猟奇殺人」
「異常性癖」
「耽美主義」
というすべてが揃っているのだ。
だから、
「犯罪が耽美だということであれば、それは、つまり、猟奇殺人であり、異常性癖の持ち主が犯人だ」
といえるのではないだろうか?
「探偵小説には、当時確かにこの2種類が存在した」
と言われる。
しかも、
「本格派探偵小説であっても、異常性癖の話や耽美主義というものを書けるという作家もいる」
ということであった。
「異常性癖」
「猟奇犯罪」
「耽美主義」
というものをそれぞれ、トリックとして考えたり、殺害方法を、そのどれかに充てるという、
「連続殺人」
ということで、一見、
「変格派探偵小説ではないか?」
と思わせておいて、実際には、
「本格派探偵小説だ」
ということになり、それが、
「事件というものを複雑化させ、それこそ、叙述トリックというものを演出している」
と言ってもいいだろう。
坂本少年は、高校時代に、それらの探偵小説を読破した。
海外の探偵小説には、あまり興味はなく、日本の探偵小説を読みこんだのであるが、その頃の探偵小説として残っているものは、そんなにもない。
有名な探偵小説作家として、
「二大巨頭」
というのがいるが、それ以外は、どんぐりの背比べで、実際に、今、小説として発刊されているものも、実に少ないのであった。
だが、それでも。
「探偵小説の人気」
というものは、かなりのもので、今の時代までに、
「どれだけの小説が複数回にわたって、映像化されてきたか?」
ということになる、
ある出版社が火付け役だったのだが、それがあったからこそ、その後の、
「推理小説」
「ミステリー」
というジャンルが確立されていると言ってもいいだろう。
そんな探偵業も、最近はあるのかないのか、詳しくは分からない。ただ、ドラマなどでは、
「探偵らしからぬ商売をしている人間が、探偵の真似事」
のようなことをしているなどというのが流行った時期があった。
特に、以前の、テレビ番組でいうところの、
「二時間サスペンス」
などというのは、そういう話が多かった。
推理小説と呼ばれる作品に、最近は結構多かったからだ。
そもそも、それぞれの作家も、
「似たような作品ばかりを書いていれば、まったく面白味もない」
というもので、
「その作家独特の作風」
つまり、
「○○というジャンルであれば、××」
と言った感じである。
だから、昭和の終わりから平成に掛けて、
「トラベルミステリー」
というジャンルであったり、
「京都独特の芸術や家を舞台にした、密室トリックやアリバイトリックなどの、トリックを中心とした本格派探偵称津」
のようなものもあった。
中には、
「ある探偵小説に出てくる、架空の探偵の孫」
と称して、作者の許可を得ているのかどうなのか分からないが、その人物を主人公に据えている人もいる。
そのうちに、
「探偵というものが、風変わりな商売であるが、事件に遭遇することで、いつも。事件に巻き込まれる」
という人もいて、ちゃっかりと事件を解決していくのである。
中には、
「探偵は趣味のようなもの」
と言っている人もいるくらいで、途中の、
「水戸黄門ばり」
と言ってもいいシーンは、見ている人間を、爽快な気分にさせるというものだ。
そもそも、
「水戸黄門」
であったり、
「遠山の金さん」
のような時代劇というのは、いつの時代も人気がある。
平成の中盤くらいから後には、その時代劇も、民放から、ほとんど消えてしまったが、それは、
「テレビ業界の大きな変化」
というものからきていると言ってもいいだろう。
「ゴールデンタイム」
というと、昔は、
「プロ野球中継」
「時代劇」
と、大体相場が決まっていた。
その後、ゴールデンの後半というのが、前述の、
「二時間サスペンスドラマ」
というものが多かった。
昭和の頃というと、
「夕方は、アニメや特撮の再放送番組」
「ゴールデンの前半は、野球中継か、時代劇」
「後半は、二時間サスペンス」