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もう一人が犯人

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「警察官の間であっても、思い知らされた」
 と言ってもいいだろう。
「いくら警察手帳を持っていて、公務として動いていても、事件の捜査には、何も役に立たない」
 ということを思い知らされるというものだ。
 確かに警察手帳を振りかざすと、ある程度の話を聴くことはできるかも知れないが、
「肝心なこと」
 ということになると、却って聞き出すことができないというものだ。
「下手に警察に何かをいえば、あいつらは、人を疑うことが商売なので、痛くもない腹を探られるということになる」
 と思わせるのだ。
「だったら、黙っているのが正解だ」
 と考えるだろう。
 警察官として、長年捜査の第一線にいると、聞き込みの際に、
「そういう他人事」
 であったり、
「警察に協力なんてすれば、こっちが、余計なとばっちりを受けることになる」
 ということで、何も言わない人が多いだろう。
 しかし、逆に、
「街のチンピラ」
 であったり、
「ワル」
 と呼ばれるような連中の方が、
「情報を持っているかも知れない」
 というのも、彼らは、警察とはいろいろな意味で、かかわりがある。
 何かあった時、
「見逃してもらえる」
 というような関係性を気づくことができればと思っていることであろう。
 そう考えると、
「警察というものが、善良なる市民というよりも、社会的には、あまり好かれるべき人間ではない相手の方が利用価値がある」
 ということになるのだ。
 結局は、
「自分たちの利害関係というもので、世間というのは成り立っている」
 というだけのことなのである。
 どんなきれいごとを言っても、世の中はしょせん、
「因果関係」
 であったり、
「利害関係」
 というものによるだけのことなのだ。
 それを思えば、
「善良な市民」
 であったり、
「善意の第三者」
 というのは、ある意味、
「胡散臭い言葉だ」
 といえるのではないだろうか?
 ここでいう、第三者というのは、
「因果関係」、
「利害関係」
 などというものがないという人にいわれることだといえるのではないだろうか?
 今の時代において、
「世間は冷たい」
 と言われるが、
「その世間というものを、どのように定義すればいいというのだろう?」
 と考えさせられる。
 そこに、
「金銭的なつながり」
 というものがあることで、かかわりを持ったとして、それの何が悪いということになるのか、考えさせられると言ってもいいだろう。
 だから、探偵というものが、
「警察の捜査が及ばないところを、金をもらって捜査する」
 ということになれば、それは、
「国家権力がない」
 ということで、
「できる範囲は限られている」
 ともいえるが、逆に、
「組織の中にいるわけではないので、自由に動ける」
 というところがあり、
「警察と、私立探偵というのは、お互いに、一長一短なところがある」
 ということになるだろう。
 そう考えれば、一つの良策が考えられるというものだ。
 それは、
「お互いに、足りないところを補う」
 という形になれば、捜査も進むということになるだろう。
 そういう意味で、昔の探偵小説や、ミステリーなどでも、
「警察に協力をする私立探偵」
 という話が多かったりするのだ。
 特に、平成からのミステリーの中には、
「最初は、その探偵を趣味にしている人が、首を突っ込む癖があるということで、警察に助言をすることで、警察から、胡散臭いやつとして睨まれる」
 ということになるのだが、その人の正体がわかると、それこそ、
「水戸黄門ばり」
 に、傾頭してしまい、
「ひれ伏してしまう」
 ということになるのだ。
 そして、警察の方から、
「捜査協力をお願いします」
 ということで、
「晴れて探偵が、警察に協力するという形で、実際には、警察権というものはないが、それに近い力を得ることができる」
 という形になるのであった。
 昔の探偵小説などでは、
「私立探偵」
 というと、やはり警察に最初は嫌われることになるが、次第に、仲良くなってくる。
 それは、
「探偵の正体」
 というものではなく、その探偵の、
「人間性」
 というものを、刑事が理解することで、お互いに尊敬の念を抱くことで、相手に一目置くということになるのだろう。
「刑事がまるで、探偵の助手にでもなったかのような感じ」
 と言ってもいいだろうが、
「捜査のためには、それでもかまわない」
 ということと、本当に、相手を信用し、親友になったかのような気持ちにさせるというのが、あたかも、
「ヒューマニズムな時代の小説だ」
 と言ってもいいだろう。
 そういう意味では、今の時代では、私立探偵というものが、警察とかかわることがあるとすれば、
「その探偵が、元は警察関係者」
 という場合に、あり得ることではないだろうか。
 しかし、これも、
「すべてが万事」 
 というわけではない。
「元警察関係者」
 ということであっても、その人をまったく知らなければ、
「疑いからしか入れない」
 ということで、果たして、
「警察が、探偵を信じる」
 などということがあるだろうか。
 特に今の人種は昔に比べて、相手を信用するということをしないだろうから、昭和時代のような、
「ヒューマニズム」
 という考えが、そもそもないのだろう。
 刑事ドラマなどを見ていれば、特にそうで、
「昭和の頃の刑事ドラマというと、
「その人間性」
 というものを中心に描かれることが多かった。
 しかし、それが、途中から、
「サスペンス」
 であったり、
「アクションもの」
 というものが出てくると、
「昔の探偵小説:
 のような発想や、
「映画における、バイオレンスもの」
 というものが流行るようになってきた。
 そのうちに、今度は、
「警察組織を内部から、批判する」
 という話を、事件と結びつけることで出てくるのだった。
 要するに、前述の、
「公務員気質」
 というものを攻撃する話である。
「警察組織の内部」
 であったり、
「警察組織の闇」
 というものを暴露する形になるので、本来であれば、
「よくドラマにできるか?」
 とも思うが、憲法で保障されている、
「表現の自由」
 というものの、ある意味、ギリギリ路線を歩むということになるのだ。
 それだけ、
「自由だ」
 ということになるのだろうが、いくら自由であっても、
「威厳によって、成り立ってきた世間を、ドラマ制作としてのフィクションだと言っても、批判していることに関しては、真実なので、そこが微妙なところだといえるのではないだろうか?」
 ある意味、
「表現の自由」
 なのだからと言って、
「相手の名誉を傷つける」
 ということは許されない。
「人から自由を奪う」
 ということにもなり、こちらも、憲法に規定がある、
「基本的人権の尊重」
 というものとの対立ということになるのだろう。
 しかし、基本的に、
「主権は国民にある」
 ということで、個人の尊重というものが一番生きるかと思いきや、民主主義においては、
「多数決」
 ということが理念であり、
「公共の福祉」
「善良な風俗」
 という意味での、
「公序良俗」
作品名:もう一人が犯人 作家名:森本晃次