悠々日和キャンピングカーの旅:⑭西日本の旅(山陰(前編))
中学生の頃から社会、特に地理が好きな科目なのだが、びわ湖の南西部の京都市内の11区やその南側の市や町が京都府だと思えてならない。なぜかその感覚に縛られている。そうなってしまった理由はよく分からないが、ひょっとしてこれは「京都あるある」なのかもしれない。
そこで、ネットで検索したところ、「知られざる“京都あるある”ランキング」なるものがあった。
面白い内容だったので紹介させていただくが、そのランキングの説明に、「他県民が知らない意外な地元あるあるが実はたくさんある」とあったので、京都府民を対象にしたアンケートなのだろう。
・第1位:北に行く時は「上がる」、南に行く時は「下がる」という
・第2位:住所が長すぎて覚えられない
・第3位:創業100年はまだ老舗と呼べない
・第4位:和食ではなくパンの消費量が日本トップ級
・第5位:宇治市の小学校は蛇口からお茶が出る
・第6位:「おいでやす」と「おこしやす」は使い分けている
・第7位:舞妓の9割以上が他府県の出身
・第8位:夏の暑さが全国トップ級
・第9位:「良い時計してはりますなぁ(話が長いの意)」「娘さんピアノが上手ですね(うるさいの意)」など遠回しに表現
・第10位:上京区・中京区・下京区出身者以外は京都人ではないと言われる(これらの区は「洛中」と呼ばれ、その周辺が「洛外」だったことからか)
10位の内容が、私の妙な感覚に近い理由なのかもしれない。1位~10位のあるあるの真偽のほどは知らないが、いずれにせよ今、京都府に入った。
どこで知ったのかは記憶にないが、「舞鶴引揚記念館」に行くこととした。
R27から右折して、舞鶴湾の東側の府道を北に向けて走り始めるとすぐ、湾に面した「海上自衛隊舞鶴教育隊」の校舎が並んでいた。そういえば、この舞鶴湾の舞鶴東港には海上自衛隊の基地があり、多くの施設があったことを思い出した。
「舞鶴教育隊」の施設の先から、府道は湾に面して走り始め、やがてトンネルを抜けると左側に「舞鶴引揚記念館」の入口が見えた。
ここ舞鶴港は、太平洋戦争直後に海外にいた日本人の引揚げの中心的な役割を担った港で、その概要を紹介する。
太平洋戦争直後の海外には、約660万人の日本人がいて、最初は、その国に留まる国の方針が出たが、やはり速やかに引揚げを進めることに変わった。
広島県の呉港をはじめ、順次18港の引揚港が全国に次々に設置され、舞鶴もその役割を担うことになった一方、日本に在留していた中国人や朝鮮人の送還のための指定港のひとつにもなった。
ちなみに、5大引揚港とは、舞鶴港、博多港、浦賀港、仙崎港(山口県)、浦頭港(うらがしらこう、長崎県)。
他港が早々に引揚港から除かれたため、昭和25年以降、舞鶴港のみが国内唯一の引揚港となり、日本各地から、夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が舞鶴港を訪れ、延べ346隻の引揚船と約66万人もの引揚者・復員兵を迎え入れたことで、ここ舞鶴の地に、この「引揚記念館」が建てられた必然性を感じた。
その館内をゆっくりとじっくりと見て回り、当時の日本がやみくもに突き進んだ結果の敗戦による海外からの引揚げについて、改めて知ることができたと同時に、日本人として、決して忘れてはならない史実に、正にその場所で触れた気がした。
特に心に残ったのは、舞鶴に最後に引揚げたシベリア抑留者の悲惨な生活の様の展示だった。約60万人の元日本兵や女性を含む民間人が極寒のシベリアで、過酷な強制労働をさせられ、粗末な小屋での悲惨な生活で、約6万人の死者を数えたとのことで、私事だが、以前から抱いていたソ連(ロシア)に対する憎悪の念が増す思いだった。
抑留者のほとんどの人が5年以内に帰国する中、11年間の長きにわたって抑留された人たちもいたとのこと。彼らを舞鶴港がずっと待っていたように思えた。
この「キャンピングカーの旅」が終わってから、「シベリア抑留」を招いた原点の日本陸軍の関東軍と呼ばれた満州駐留部隊の暴走からの歴史をたどってみたくなった。
この紀行文を執筆している今(2025年2月)、NHKの番組「映像の世紀バタフライエフェクト ラストエンペラー 溥儀 財宝と流転の人生」が放送されていて、先ずは、この番組をじっくりと見ることにした。
満州を占領した関東軍は、満州の人々による独立国家の体裁を取り、国際社会の批判をかわそうとして、清朝最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)を満州国の皇帝ではなく、元首・執政に据えた。2年後、日本は満州国を日本の兄弟国として帝制国家に改め、溥儀を皇帝にしたものの、満州国は日本の傀儡国家で、溥儀の歴史を通して満州事変から満州国の建国、そして滅亡までの時代を垣間見ることができた。
日本人として気持ちが揺さぶられた「舞鶴引揚記念館」を後にして、R27に戻り、「舞鶴赤れんがパーク」に向かった。
その近くの舞鶴市役所の駐車場に「ジル」を停めてから、海沿いの道を歩き、そこから見える対岸に停泊している海上自衛隊の船の写真を撮りながら赤レンガ倉庫に向かった。
夕方に近いせいか、観光客は少なかった。
海沿いの赤レンガ倉庫は絵になるのではないかと思いながら、海上自衛隊の船が停泊している対岸から海越しのレンガ倉庫の写真を撮りたくなった。レンガ倉庫を見物した後に対岸まで行くことにした(この時はそう思っていたが、すっかり忘れてしまった)。
海岸線に直角に並ぶ赤レンガ2号棟、3号棟、4号棟の建物の妻側の海側に広場があった。そこに行くと、その3号棟と4号棟の間から奥の5号棟がコの字に見えるフォトスポットがあり、そこには写真撮影のためのスマホの設置スタンドがあり、そこにデジカメをセットして、セルフタイマーで自撮りした。
パーク内の「赤れんが博物館」に入りたかったが、既に16時を回っていて、今日のゴールは道の駅「舟屋の里 伊根」に決めていたので、先を急ぐことにした。
R27の海側にも山側にも、海上自衛隊関連の建屋が並んでいる中を走っていると、自衛隊の船が係留されている岸壁の横を走った。その時は、前を走るクルマとの車間距離を開けて安全を確保しながら、運転席側の車窓風景に釘付けになってしまった。
あとで知ったのは、その山側にある「海上自衛隊舞鶴地方総監部」の敷地内に「海軍記念館」があり、その公開時間は土・日・祝日の午前10時~午後3時とのことだが、土曜日の今日は入館できる日だったが、もう午後4時を過ぎていたので入館できない。次回の旅で、タイミングが合えば、入館したいと思っている。
舞鶴湾の東港からR27で西港に向かう際は一旦、海岸線から離れて山間を走る。
ここでも、あとで知ったことがあった。それは、R27と若狭湾の間に標高300mの五老岳(ごろうだけ)があり、その頂上には、若狭湾を見渡せる「五老タワー」があったのだ。高い場所から下界を俯瞰するのが好きな私は、このタワーに立ち寄らなかったのはたいへん残念に感じ、ここも次回の旅で、必ず立ち寄ることに決めた。