死ぬまで消えない十字架
「俺にとって異常性癖というのは、果てしない欲望であり、それが生きがいに繋がるんだ」
とうそぶいている。
なるほど、異常性癖という言葉は、すべてを凝縮し、一つに固めてしまっているようだが、実際にはそうではない。
相手も違えば、行為も違う。それだけに、好奇心を持った人にとっては、これ以上の興味深いことはないと言ってもいいだろう。
やつは、素人女に対してだけ、優位を持っているわけではない。風俗の女性にも、食指を伸ばしていた。
しかし、やつには、
「自分なりのポリシーというものがあり、風俗の女を自分のものにしたからと言って、その女の店に行かなくなるということはなかった」
というのである。
普通であれば、風俗の女を自分のものにすれば、ホテルかどこかにしけこんで、金を払わずに、いや、下手をすれば、ヒモのように、
「相手の女に貢がせる」
ということをすることだろう。
しかし、片桐はそうではなかった。
「風俗の女を自分のものにした場合、ホテル代を出させたりして、ただでできるなどという考えは俺にはないんだ」
ということであった。
「どうしてなんだ?」
と、普通の人は思うだろう。
特に、
「風俗の女が俺のような男になびくわけはない」
と思っている人にとっては、そうであろう。
しかし、片桐の気持ちは別のところにあり、
「ホテルに入ってただでできるという女は素人娘だから、興奮するのさ。プロの女には、プロとしてのプライドがある。そのプライドをどのように利用するかというのが、プロの女を相手にすることの醍醐味になるのさ」
と片桐はうそぶいていた。
そこまで聴いても、片桐が何を考えているのか分からない。頭を傾げていると、
「まだ分からないようだね」
と聞くと、相手は、恐縮するかのように頭を傾げると、
「はぁ」
と答えた。
それを見て、勝ち誇ったかのように、片桐は上から目線になって、話を続ける。
「プロの女の、プロ根性というのは、男に尽くして、男の癒しになり、自分が奉仕することで、相手に、女が尽くしてくれるということが、自然な行動であるかのように思わせることなんだ。だから、男が女を蹂躙してしまって、支配してしまおうとすると、せっかくのプロ根性を失わせてしまうことになるのさ。だから、こちらが優位に立って、支配するという気持ちにさせる相手は、素人女に限るのさ。プロの女性は、絶えず、自分がプロだという気持ちにさせておいて、相手の優越感をくすぐることで、こっちは満足できるのさ。つまりは、委ねる気持ちになって、癒しをもらうということさ」
というと、相手は、
「うーん」
と唸るが、いまいち納得していない様子になるのだった。
「納得できるとは思っていないさ。俺だって、経験から感じていることなんだからね。だけど、俺の考えを頭において、今度風俗に行ってみれば、なんとなくだが、感じることができるかも知れない。というよりも、きっと、今までにない楽しみ方ができるはずじゃないかな? 要するに、お金じゃないのさ。お金はあくまでも、あいさつ代わり、逆にお金の関係と思うから、相手をプロだと思えるし、癒しをもらう権利があると思えるのさ」
と片桐はいうのだった。
確かにいわれてみれば、おぼろげに分かる気がする。
その話を聞いた男は、実際にその後、風俗に行って、
「目からうろこが落ちた」
と感じたというのも、当然のごとくだったといえるだろう。
そういう意味では、
「片桐という男は、プロと素人の女を自分の中で明確に分けていた」
と言ってもいいのだが、それはあくまでも、
「肉体関係の上だけのこと」
だということだったのだ。
というのも、
「普段から普通に表に出歩いて、手をつないだりして、普通のカップル」
という様相を呈していた。
相手が主婦であっても、そこに変わりはなかった。
ただ、それで旦那に見つかるようなへまはしなかった。実際には、
「旦那に見つかる」
それどころか、
「悟られる」
ということもなかったのだ。
やつには、それだけの何かの素質のようなものがあったようで、それも、片桐という男の、
「秘密だ」
と言ってもいいのだろうが、その正体は用として知れないと言ってもいいだろう。
やつの異常性癖は、
「そのプレイ」
だけに限ったわけではなく、前述の
「プロの女と素人の女に対しての使い分け」
という、
「独自の考え方」
というところが、やつにとっての、
「異常性癖だ」
と言ってもいいのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「やつが、たくさんの女と関係し、一時に、複数の女性と交際しながらも、誰からも恨まれるということがなかったのも、
「一種の異常性癖だ」
といえるのではないだろうか?
それを思えば
「片桐という男は、どこを切っても、異常性癖だ」
と言ってもよかっただろう。
彼の世界を少しでも覗いたことのある人は、
「ほぼ皆、彼の崇拝者となるだろう」
と言われている。
「それじゃあ、新興宗教のようではないか?」
というと、
「ああ、そうだよ。新興宗教の何が悪い」
という。
「それって、洗脳はないのか?」
と言われると、
「ああ、洗脳だよ。洗脳の何が悪いというんだ? 俺は洗脳されていると分かっていて、それでも、彼の考えに陶酔しているのさ。もし、洗脳を悪いことだというのであれば、それは、本人が洗脳されているという意識がなく、ましてや、感覚をマヒする状態に追い込まれての洗脳であれば、それだったら、悪いといえるのではないか? しかし、少なくとも俺は違う。彼を慕っている人は、俺意外も違うと言ってもいいだろう。だから、俺は、洗脳されていないと言い張ることはないが、彼を全面的に信用もしているのさ」
というのだった。
さらに、
「皆、異常性癖であったりと言っているが、それは、問題が、性癖ということにあるから色眼鏡で見るだけのことじゃないのか? なぜなら、彼は性癖というのは、人それぞれであって、それを一つのこと以外を認めないという、性に対しての歪んだ考えをしているから、自分たちの考え以外と異常だと思ってしまうんだよ。そのキーワードが、タブーということではないだろうか?」
というのだ。
彼のような、
「洗脳されているのではないか?」
と思える人にここまで論破されると、
「俺の考えが間違っているのか?」
と、自分を、
「正常だ」
と思っている人ほど、話をしていて、分からなくなってくるというものであろう。
なるほど、冷静になって考えてみると、昔から、
「タブーと言われているものを破った時というのは、そのすべてにおいて、罰を受けるということになるのではないか?」
といえる。
特に、おとぎ話や神話、さらには、聖書のような教典と呼ばれるものには、たくさん書かれていると言ってもいい。
たとえば、
「見るなのタブー」
と呼ばれるものなど、特にそうであり、日本のおとぎ話であれば、
「浦島太郎」
「ツルの恩返し」
などはその例であろう。
また、
「ギリシャ神話においての、パンドラの匣」
という話であったり、
「聖書」
などでは、
作品名:死ぬまで消えない十字架 作家名:森本晃次