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対となる能力

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 ただ、結局は戻ってきたということで、事なきをえたと考えられるが、前述の発想ということを考えれば、
「パラレルワールドには、そのすべてに、同じ人間が存在しなければいけない」
 ということであるのなら、そもそも、
「パラレルワールドに存在する」
 ということがありえないということになるのだ。
 だが、
「それをありだ」
 と考えるのであれば、
「タイムスリップを行った」
 という事実は、正真正銘の、
「歴史において正しい」
 ということになり、
「矛盾であっても、起こってしまったことは、正しい」
 と考えるしかないというわけである。
 これが、
「夢の世界と、現実の世界の違い」
 というもので、下手をすれば、
「夢の世界であっても、それを、一つのパラレルワールドだ」
 と考えるのであれば、
「夢の世界も、歴史においては正しい」
 ということになるのかも知れない。
 そうなると、
「歴史は、変えることができない」
 というわけではなく、
「歴史が変わってしまったら、その変わってしまったことが、正しいことだということで、上書きされる」
 ということになるのではないだろうか?
 それを考えると、
「歴史というものは、何が正しいのかということは、人間には、永遠に分からない」
 と言ってもいいだろう。
 つまり、
「歴史が終焉を迎えたその時でしか、何が正しいのかを決定することができない」
 ということになるだろう。
 では、
「歴史が終焉する」
 というのは、どういうことをいうのだろう?
 それは、
「宇宙の果てがどこにあるか?」
 という発想に似ている。
「果てしない」
 そして、
「無限」
 ということが当たり前だという発想から生まれる考え方が、
「結局、最後には、同じところに落ち着くことにしかならない」
 ということになり、これが、歴史に限らず、すべての答えだということになるのかも知れない。

                 国家の余命

 馴染みの喫茶店に行くようになってから知り合った初老の男性は、名前を、玄斎と名乗った。
 まるで、どこかの和尚か、時代劇にでも出てくる忍者の親玉のような名前であるが、その様相も、いかにもという雰囲気であった。
 白髪に白髭を生やしていて、服が、武士のような服を着ていれば、それこそ、
「時代劇の登場人物」
 という風に思えるかも知れない。
 ただ、いつもその恰好は、スーツにネクタイという様相で、今の時代であれば、
「どこかの博士のように見える」
 という感覚だった。
 身体の大きさの割に、顔が大きく見えるので、そこか、飲まれてしまいそうな雰囲気を感じるが、それこそ、
「その人間の威厳」
 というものを感じさせられるといってもいいだろう。
 最初は、
「近寄りがたい人だな」
 と思っていた。
 店の客も確かにそんなに多くはなかったが、その人のオーラが他の人とは明らかに違っているので、誰も近寄ろうとはしない。
 もっとも、この店の常連は、それぞれに自由であり、それぞれに話をするというのはあまり感じられない。
 今の時代であれば、当たり前のことなのだろうが、
「昭和レトロであれば、もう少し話をしている人がいてもおかしくない」
 と思ったのだが、実際に、誰も話しかけないこの雰囲気も、
「慣れてくると、これが当たり前なんだ」
 と思わずにはいられない。
 そして、
「これが昭和というものなんだ」
 と勝手に思い込んでしまったが、
「どの時代であっても、昔から変わらない伝統というものがあるのと同じで、それこそ、譲ることのできない遺伝子というものがかかわってきているのではないだろうか?」
 と思うことであった。
 前述の、
「タイムトラベルの発想」
 であったり、
「歴史認識」
 というものを考えるようになったのは、この喫茶店に来るようになったからであり、
「玄斎という老人を意識するようになったからなのかも知れない」
 と考えていた。
 この店では、皆それぞれに、
「指定席」
 というものが決まっている。
 そして、こういう店にはありがちの、
「客というと、そのほとんどが、常連客である」
 ということであった。
 それはもちろん、夕方以降に言えることであり、地元の人間でも、
「初めて入るという一見さんということに関しては、かなりのわだかまりを持っている」
 と言ってもいいだろう。
 この街は南部の人たちと違い、これも、
「あるある」
 ということで、
「閉鎖的」
 と言っていいだろう。
 それこそ、
「閉鎖された村というものが、現代に現れた」
 と言ってもいい。
 ただ、これは、昔からの街の特性であり、だからと言って、
「差別的なものがあったわけではない」
 ということから、行政などが、介入するというのは、まったくの筋違いというものであった。
 別に、北部の人たちが、
「閉鎖的」
 だからと言って、誰に迷惑をかけるというわけでもない。
 もちろん、北部の人たちには、
「南部の人たちに荒らされたくはない」
 という思いが根底にあるようで、もちろん、南部の人たちにそんな意識があるわけではない。
 完全に、
「思い込み」
 と言ってもいい。
 南部の人からみれば、
「あそこは、まだ大日本帝国なんじゃないか?」
 という人もいるくらいで、
「いや、封建的と言ってもいい」
 という人もいた。
 しかし、南部の人たちは、意外と、
「歴史認識のある」
 という人たちが多いようで、
「封建制度というものが、決して悪いものではない」
 と考えている人も少なくはなかった。
「封建制度というのは、精度としては、ある意味しっかりしていると言ってもいい」
 というのは、
「相互関係がしっかりしている」
 ということからであった。
 そこには、
「土地の保障」
 という約束事があり、それに対して、お互いに認め合うものということで、
「平安時代のように、貴族や寺院などが、荘園という土地を牛耳っていることで、武士や農民が迫害されていた」
 ということから、
「武士や、農民に土地を保障することで、領主が戦をしたり、緊急事態に陥った時には、助けにいく」
 ということが、封建制度の基礎であったのだ。
 それを、
「ご恩と奉公」
 という言葉で表すことができるのだが、これは、現代の政治の基本ともいえるだろう。
「会社員が、会社に雇われて、会社で仕事をすることで、その代価として、給料をもらう」
 ということになるのだから、これだって、
「ご恩と奉公」
 ということになるだろう。
 そして、国家に対しては、
「納税」
 という形で、封建制度の時代でいうところの、
「年貢」
 ということになるのだ。
「年貢によって、禄を得た領主が、土地を保障する」
 ということと、
「税金によって給料をもらう政治家が、国民が生活できるように、政治を行う」
 ということは、基本的には同じことである。
 今の民主主義であれば、
「政治家というのは、国民の投票によって、多数決で決まる」
 ということで、封建時代のような、
「世襲」
 ということではないところが違っているのだ。
 昔の封建制度というのは、
「中央集権」
作品名:対となる能力 作家名:森本晃次