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対となる能力

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 その子は大学生だったらしく、卒業して、他の街に行ってしまったが、山本としては、
「ロス」
 を感じていたのだ。
「ぽっかりと開いた穴」
 と言ってもよかったが、
「この街に初めて彼女が来た時のことを、想像してみた」
 自分が初めて来たときとを比較してのことだった。
 男と女の違いというものこそあれ、
「どこが感覚的に違うというのか?」
 ということを考えると、
「大学生の彼女でも、昭和の昔の、まったく知らないはずの時代を、店という形で肌で感じることができるのだから、自分のように、昭和に近い。生まれは昭和だ」
 という人間であれば、その思いは、
「もっと強いのではないか?」
 と感じるのだった。
 その喫茶店は、
「情緒あふれる街」
 と呼ばれる中でも、現代的なところに位置していた。
 せっかく、歴史的な街なのだから、
「歴史的遺産と言われるようなところにあれば、もっとよかったのではないか?」
 という人もいたが、山本はそうは思わなかった。
「その場所には、それ相応のふさわしさというものがあるわけで、その時代時代には、似合うものがあるはずだ」
 という考え方を持っていた。
 それは、大学時代までには、その考えを分かる人はいなかったが、社会人になってから、徐々に増えていき、三十代くらいになると、その考えを話し合えるくらいの人も出てきたと思うようになってきた。
 そもそも、
「歴史というものが好きだ」
 という認識を持った人が結構多く、
「ただ歴史というものが好きだ」
 という感覚ではない人が、自分だけではないということを知ると、そう連中と一緒に話ができるというだけで楽しくなってきたのであった。
 ただ、
「同じ歴史でも、そのあたりが違うのか?」
 ということに関しては、話をしても、なかなか答えが出るものではなかった。
 もっとも、
「答えが出ないことで、その探求心というものが深くなってくる」
 ということで、
「果てしない探求心というものが、自分のバカでふつふつとこみあげてくるのを感じているのであった」
 山本が、
「歴史が好きだ」
 ということと、
「歴史への探求心」
 として抱いている感覚は、実は同じものではなかった。
「それじれ別の学問に対しての思い入れ」
 と言ってもいいかも知れない。
 この思いは、
「他の人には決して分かるまい」
 とも思っていることであり、何がどう違うのかというと、三十歳になるくらいまでには、自分も、言葉にしようがないくらいであった。
 特に学生時代というと、それが、たとえ、
「大学時代」
 といっても、理屈を口にするということは難しかった。
 なぜなら、
「歴史というものを、学問としてしか見ていなかったからだ」
 ということであった。
 この思いが、大学を卒業してから感じるようになったものだが、だからと言って、それを、
「口で説明しろ」
 と言われてもできるものではなかったのだ。
 学生時代、特に、高校生の頃までは、
「受験のための勉強」
 でしかなかったのだ。
 確かに、以前に比べると、
「ゆとり教育」
 などと言われ、
「余裕を持った勉強」
 ができるようにはなったが、そのせいか、
「勉強というものを、どのようにいすればいいのか」
 ということが見えなくなってしまった。
 何しろ、ゆとり教育によって、
「勉強というものが何なのかということが、分からなくなってきてしまった」
 と言ってもいい。
 それまでは、曲りなりにも、
「受験という目の前に見える目的があったことで、それを理由ということで、勉強をする意義を自分の中で、
「やりがい」
 として求めることができた。
 要するに、
「目標がやりがいとしての指針」
 となったからである。
 しかし、今度は、その目標というものを、ゆとりという形で、自分たちの都合を生徒に押し付けたことで、その目標が見えなくなってしまったのであれば、それこそ、
「勉強をして何になる」
 ということになるのではないだろうか?
 そもそも、ゆとり以前の教育は、
「科学の発展」
 あるいは、
「学問の発展」
 というものに、
「世界的に追い付かなければいけない」
 という考えから、
「学習レベルを上げる」
 ということから、いつの間にか、
「学歴社会」
 というものとなり、大人の教育が、
「いい学校に入り、いい会社に就職する」
 ということが、
「学問の道」
 という風に捻じ曲げられたのであろう。
 それが、
「暗記科目のような、理屈だけの詰め込み」
 ということになってしまい、違う道に進んでいたが、それが、今ではゆとり教育から、一周回って、
「本来の学問の追求」
 というものに姿を変えてきたのであった。
 歴史というのも、
「その学問への道」
 ということで、今は、今まで、
「常識」
 とされてきたことも、
「歴史研究と認識によって、実は違っていたと言われるようになってきた」
 ということであった。
 特に歴史解釈というのは、
「答えがある」
 というわけではない。
 その時代に生きていた人がいるわけでもないし、生き証人がいるわけではない。だからこそ、
「歴史というものが、いかにその姿をこれまでにはなかった解釈をすることで、新しい発想として解釈されていくことで、立派に学問として表舞台に現れてくる」
 というものだ。
 何といっても、
「過去があってこそ、今がある」
 ということである。
 過去の先人たちが、今の時代を作ってきたのであり、中には、
「間違った道」
 というのもあったことだろう。
 そもそも、考え方や、
「歴史の時系列」
 というものは、
「無限の可能性」
 というものを秘めているといえるだろう。
 他の学問でいえば、
「パラレルワールド」
 と言われるもので、これこそ、
「時系列」
 というものを、
「無限の可能性に結びつけるものである」
 といえるのではないだろうか?
 山本は、この喫茶店に来るようになって、一人の初老の男性と知り合うことになった。
 知り合ったのは、数か月前のことであり、今までに、何度となく遭って、話をしてきたが、その話のきっかけは、その時々でいろいろとあるのだが、
「最終的には、いつも同じ結論に導かれている」
 と考えるのであった。

                 歴史の正否

 パラレルワールドというものは、
「タイムトラベル」
 という、いわゆる、
「SF小説」
 などというジャンルのものから生まれた言葉であった。
「タイムトラベル」
 というものには、今ではいくつかの種類が考えられていて、そのうちの大きな分け方に、
「三つある」
 と言われている。
 その一つが、
「タイムスリップ」
 と言われるもので、
「タイムマシンを使って過去や未来に行ったり」
 あるいは、
「何か、説明はつかないが、時空の穴と言われるものによって、自分の知らない時代に放り込まれる」
 という発想が、SF小説などでは一番スタンダードな発想として言われているものであった。
「タイムスリップ」
 というのは、
「自分が、知らない世界に連れていかれる」
 というもので、
作品名:対となる能力 作家名:森本晃次