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対となる能力

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 というのかということが、いまいちわからなかった。
「調子を狂わされた」
 というだけであれば、すぐに治る気もするが、
「頭の思考を狂わされた」
 ということであれば、そうもいかない。
 ただ、
「調子を狂わされた」
 という場合であっても、簡単に落胆できるものでもない。
 狂わされた調子が、今日だけのものであればいいのだが、もし、元に戻って、また後日。この老人と歴史の話をした時、
「まったく同じ感覚」
 というものを味わわされるということになれば、果たして、簡単に事が運ぶと言ってもいいのだろうか?
 そんなことを考えていると、目の前の老人が、
「本当に歴史が好きなのだろうか?」
 と感じた。
「ひょっとすると、自分と同じように、何か他の話に誘い込もうとして、歴史の話をしただけなのかも知れない」
 と感じた。
 そうなると、老人が歴史の話をするのはあくまでも偶然であり、山本が思っているような、
「この人は歴史ファンなのだろうか?」
 という根本的な話は、
「まったくとんちんかんなことを言っている」
 ということになるのではないだろうか?
 それを考えると、
「俺って、こんなにいろいろと考える人間だったのか?」
 と思うようになった。
 確かに、
「歴史の話」
 であったり、
「タイムトラベル」
 のような話であれば、真剣に考えるであろうが、それも、
「局地的な考え方」
 ということで考えるだけであった。
 それは、自分が、
「局地的な考え方になるのは、それを学問と感じているからだろうか?」
 と考えるからで、
「タイムトラベル」
 という話も、
「基本的には、物理学というものが基礎にあるからで、見えないところで、他の学問も誘発させるものではないか?」
 と考える。
 それが、他の人は想像もしないような、
「歴史」
 であったり、
「心理学」
 のようなものに派生するから、それが、ストーリーになると、SF小説となるのではないか?
 とも感じられた。
 だから、山本は、
「心理学」
 というものにも、造詣が深かった。
 というのは、山本の知り合いに、最近、
「精神疾患を患っている人が多い」
 ということであった。
 それは、
「最近知り合いになった」
 という人も多いが、
「昔から知り合いだった」
 という人が、
「急に、精神疾患を発症した」
 ということも多かったりする。
 実際に、今の時代では、
「生まれつきの精神疾患の人も一定数はいるが、途中から精神疾患を発病する」
 という人も多い。
 それは、
「育った環境に影響する」
 というもので。下手をすると、
「選ぶことのできない生まれた時の環境」
 というものが、
「育ってきた環境」
 ということで、一緒に考えられているのであろう。
 山本は、心理学を勉強することで、
「生まれる時と、死ぬ時は、自分の意志ではどうにもならない」
 ということを考えるようになった。
「死ぬことは、自殺をすれば、選ぶことができる」
 という人がいるが、確かにそうである。
 宗教的には、
「自殺を奨励はしない」
 ということで、
「十戒」
 の中にある、
「人を殺めてはいけない」
 という言葉は、
「自分でも同じことで、だから、自殺を許さない」
 ということになるのだ。
 これが問題となったのが、戦国時代の悲劇とされる。
「細川ガラシャの自殺」
 という事件であろう。
 関ヶ原の戦いの前夜、西軍の石田三成が、東軍の徳川家康が、
「上杉征伐のために、会津に出兵」
 という事態において、ほとんどの大名が大阪を留守にしたのをいいことに、
「好機至れり」
 とばかりに、出兵に発った大名の家族を人質にしようとした時のことであった。
 細川忠興も、その一人だったことで、大阪の細川屋敷も襲われ、人質になりかけたところ、奥さんの細川ガラシャが、
「旦那である忠興の足かせにはならない」
 ということで、自害を考えたが、キリシタンとして、洗礼も受けている彼女は、
「自殺は許されない」
 という戒律によって、どうするかと考えた時、
「配下の兵に、自分を殺させる」
 という手段に出て、
「戒律を守る」
 ということには成功したのだ。
 これを、
「戦国の悲劇」
 ということでありながら、
「戦国の美談」
 ということでも、語り継がれている。
 しかし、これは本当に美談なのだろうか?
 もちろん、考え方であり、
「戦国という時代」
 ということからも、
「混沌とした時代であるからこその美談」
 と言われるのかも知れない。
 しかし、本当に美談と言ってもいいのだろうか?
 そもそも。戦国時代というのは、確かに、混沌とした時代ということでありながら、どうしても。
「殺し合いの時代」
 ということもあり、
「死というものに、感覚がマヒしている」
 と言ってもいい。
 しかし、それだけに、
「生きている時代を恥ずかしくないように」
 ということで、武士道というものがあるといえるだろう。
「死に際くらいは潔く」
 というのも、武士道と言ってもいい。
 だから、外人が、明治以降、日本の文化に触れてからというもの、
「ハラキリ」
 であったり、
 戦後などでは、
「カミカゼ」
 という言葉が言われるようになった。
 イスラム教などでは、戦争を、
「聖戦」
 という形で言い表し、
「自爆テロ」
 などということも普通にあったりするではないか。
「自爆テロ」
 というのも、日本人の中にある、
「カミカゼ」
 という精神と似ている。
 ただ、あくまでも、
「戦争を何とか持続させるため」
 ということでの、
「最後の手段」
 として考えられた、
「カミカゼ」
 と違い、イスラム教における、
「自爆テロ」
 というのは、
「自国に対しての侵略を繰り返している国に対して、対抗するため」
 ということで、その対応は、
「民族の生き残り」
 と、
「侵略者に対しての対抗」
 という意味での、
「ゲリラ戦法」
 と言ってもいいだろう。
 だからと言って、
「大日本帝国という国が最悪」
 というわけではない。
 開国してから、欧米列強に対して、植民地にされることなく、
「アジアの盟主」
 として、
「唯一対抗してきた国」
 ということである。
 だから、かの戦争だって、
「大東亜共栄圏」
 と呼ばれる、
「欧米列強に植民地化された東アジア諸国を、欧米列強から解放し、独立して国家運営をしていくための新秩序を、日本が中心になって築き上げる」
 というのが、戦争のスローガンだったのだ。
 それを、
「戦争に負けた」
 ということで、敗者になってしまい、そのため、日本は、
「占領軍から、大東亜戦争という言葉を使ってはいけない」
 ということになった。
 ただ、日本は占領軍の統治が終わった時点で、独立したわけで、そこから先は、
「大東亜戦争」
 と言ってもいいはずなのに、なぜか、日本政府は、
「大東亜戦争」
 という言葉を封印し、しかも、かつての軍や政治家が、
「皇国の興廃」
 というものを真剣に考え、戦争を行ったはずなのに、日本民族が、彼らを、
「侵略者」
 とするのは、どのようなものなのだろうか?
 それこそ、
作品名:対となる能力 作家名:森本晃次