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対となる能力

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 そう感じてから、目の前の老人を見ると、老人が微笑んでいるように見える。
 その顔は、
「すべてを見越している」
 と言わんばかりで、却って気持ち悪くもあるのだった。
 それを考えると、
「この老人は、何を言い出すか分からないな」
 と思った。
 自分の意見もいわず、異論を唱えるということもない。
 ということは、口を開いた時、
「何を言われるか分からない」
 ということになるであろう。
 山本は、なるべく、
「差し障りのない話をしよう」
 と思っていた。
 話はすでに、
「完全に歴史の話」
 に変わっていた。
 本当であれば。史実であったり、誰か個人に対しての話をするのが普通なのだろうが、山本は、そんな話をするわけではなかった。
 そもそも、山本は、
「歴史を学問として見ている」
 と言ってもいい、
 最近でこそ、
「歴史というのは、いろいろな見方がある」
 と言われている。
 テレビ番組でも、
「ある事件のある瞬間を結論として、その結論を導き出すのが歴史」
 という見方から、編成された番組もあったり、
「歴史というものを、馴染みのある学問」
 ということで、
「クイズ形式」
 にしたり、
「ドキュメンタリーのドラマ形式で、ある一点だけを中心に描くようにわざと、時系列を無視」
 したり、
「時代考証に沿わないという内容で描いたり」
 という演出で、いかに歴史に興味を持ってもらおうかということをしていたりする。
 某国営放送での、
「旧教育放送」
 では、
「アイドルを出演者に起用し、視聴率を稼ごう」
 とでもいうのか、露骨に感じさせる番組もあったりする。
 しかし、それでも、
「歴史に興味を持ってくれれば、きっかけは何であってもいい」
 というのが最近の考え方なのか、山本は、それでもいいと思っているのであった。
 だが、話をしていると、この老人は、ハッキリとは口にはしないが、
「その考えには反対だ」
 とでもいっているように感じる。
 山本も、実は、
「歴史にたくさんの人が興味を持つということは悪いことではない」
 と思っているが、本来であれば、歴史に興味を持っている人間は、
「それなりに、基礎知識を持ってほしい」
 と思っている。
 そうでなければ、
「歴史という学問を好きだと言っている人間が、すべて一緒くたに扱われてしまう」
 と感じるからだ。
 確かに、
「ピンからキリまでいる」
 ということで別に構わないが。まわりからの視線が、
「にわかファンではないか?」
 という目で見られるのは、嫌なことであった。
 にわかファンというものが、いかなるものかということを考えると、どうしても意識してしまうのは、
「プロ野球などのファン」
 であった。
 たとえば、
「普段は、弱小な球団で、ずっと優勝から離れていたが、地元だけでなく、なぜか全国でファンが多く、しかも、そのファン層は、かなり独特な球団」
 というのがあり、その球団が、その年は、何か、
「狂い咲きであるかのように、戦力が充実」
 していたり、
「他の球団が、けが人続出の中で、その球団だけは、けが人もなくシーズンを過ごすことができて」
 しかも、
「今までは、ほとんど活躍しなかったような選手が、監督の期待に応える」
 などということになれば、
「奇跡の優勝」
 ということだってあるというものだ。
 特に、シーズン中に、
「奇跡の試合」
 などという、
「優勝するには、そういう神話のような試合が数試合ないといけない」
 と言われていて、それは逆にいえば、
「そういう試合があればファンというものは、今年こそ奇跡を」
 と思うだろう。
 そして、その奇跡が実際に起こってしまうと、
「街を挙げての大フィーバー」
 ということになる。
 そうなると、必ず出てくるのが、
「にわかファン」
 というものだ。
 それまで、他のチームのファンを騙っていたやつが、大っぴらに、にわかファンとなるのだ。
 優勝に浮かれている、
「老舗のファン」
 でも、くらいは、にわかファンであっても、許される」
 と思っていることだろう。
 そんなにわかファンも、今年の優勝が、本当に、
「奇跡の優勝」
 ということで、翌年は、
「優勝にい程遠い」
 ということになると、もう、ファンではなくなっているわけだ。
 だからこそ、
「にわかファン」
 というのである。
 山本は、そういう、
「にわかファン」
 というものを、小学生の頃から毛嫌いしていた。
 だから、
「自分はにわかファンにはなりたくない」
 という気持ちから、子供の頃でも、
「スポーツは見ない」
 と決めていた。
 もちろん、地元の球団が優勝でもすれば、街が賑やかになるのは嫌ではなかったが、それも子供の頃までで、高校生になったくらいから、
「優勝などという余計なことをされると困る」
 と思っていた。
 というのは、
「下手に優勝などすると、シーズンが終われば、優勝パレードなどされて、電車が遅れたり、街では交通規制が行われ、バスが遅れる原因となる」
 ということであった。
「野球が好きな人はいいかも知れないが、別に野球が好きでもない人から見れば、そんな余計なパレードはやめてほしい」
 と思う。
 本当に余計なことではないだろうか?
 歴史にしてもそうであり、
「自分が本当に好きなものに、にわかファンは必要がない」
 と思っていた。
 ただし、歴史のような学問は、
「好きな人」
 というのが増えないと、なかなか、他の学問に押されてしまい。その立場が、肩身の狭い思いをして、
「知りたいことが制限されてしまう」
 ということになるかも知れない。
 それを考えると、
「歴史」
 というものを、
「学問としてではないもの」
 と考える方が気が楽に感じていた。
 しかし。
「歴史を学問として見るから、歴史が好きなんだ」
 ということも真実であり、この、
「矛盾した考え方」
 というものを、どう考えればいいのか?
 と思えば、
「少なくとも、にわかファンだけは、ありがたくない」
 と感じるのだ。
 だから、
「この人は歴史が好きかも知れない」
 と思っても、いきなり歴史の話に入ることはない。
 まずは、他の話で様子を見て、
「この人が歴史を、学問として見ているのかどうか?」
 ということを探ろうとするからであった。
 実際に、この老人に関しても、同じようにしたつもりだったが、まさか、相手から、こちらの思惑を無視するかのように、歴史の話をするとは思わなかった」
 というものであった。
 そして、まだ少しではあったが、歴史の話を始めてから、この人の話を聞いていると、
「本当に、歴史を学問として見ているのだろうか?」
 と感じた。
 確かに、話の感じでは、
「学問として見ている」
 という人に分類できる相手なのだが、自分がその判断をしようとすると、まるで、霧の中に紛れてしまったかのように、相手の姿が見えなくなってしまうのだった。
 それを感じると、またしても、
「狂わされたような気がする」
 と感じたのだ。
 その、
「狂わされた」
 というのが、
「調子を狂わされた」
 というのか、それとも、
「頭の思考を狂わされた」
作品名:対となる能力 作家名:森本晃次