対となる能力
というのは、いわゆる、
「無限」
というものを示しているということであり。この場合の無限というのは、
「永久に発明されない」
ということで、無限という言葉にも、
「いい意味での無限と、悪い意味での無限が存在している」
ということの証明だといえるのではないだろうか?
どうやら、老人は、この、
「無限」
という言葉の証明ということを言いたかったような気がする。
そして、この老人を見ていると、遭ったのは今日が初めてではなかったが、ここ数日のはずなのに、
「数年前から知り合いだったような気がする」
という感じがした。
それは、
「話の内容が充実している」
というわけではなく、
「その老人の時系列での顔の変化」
というものを分かっているということから感じたことであった。
「ここ数年間というもの、特に、自分が年を取ってきたということを感じるになった」
ということからであった。
年を取ったといっても、まだ目の前の老人から見れば、
「まだまだ子供だ」
と言ってもいいだろう。
目の前の老人がいくつ七日は分からないが。まだまだ十数年くらいは違っていると言ってもいいだろう。
だが、自分が、今40歳代に差し掛かってきた頃なので、老人が定年前くらいではないかと思うと、
「まだ20歳は離れている」
と言ってもいいかも知れない。
ただ、今から20年後というのは想像もつかないが、
「歩んできた20年ということで考えると、今から20年前というと二十歳の頃である」
その頃というと、まだ大学生で、大学時代というと、
「何を考えていたのだろう?」
と考えてみても、思い出すことができないほどであった。
もちろん、本当に思い出せないわけではなく、思い出そうとすると、その長い時間に、
「思い出そうという意識は強くないと。今の自分が過去に戻る意識を持つことができない」
というような、まるで、
「タイムトラベル」
の発想のようである。
「こんなことを考えているから、タイムトラベルの発想が、今日に限って、こんなにも、鮮やかにいろいろ浮かんでくるのだろうか?」
と感じた。
「それこそが、マスターと一緒に話をしていた時、自分で考えていたことに、そのマスターがついてこれなかったくらいに鮮やかだったからではないだろうか?」
と感じた。
しかし、それ以上に言えることは、
「ここで話をしている中で、マスターと話している内容が、いつの間にか、、タイムトラベルの話から、歴史の話に移行しているかのように感じたからだった」
と思ったからだった。
どうも、
「マスターが歴史の話は苦手だ」
ということは分かっていた。
分かっているところで、
「マスターが話から抜けたがっている」
と思ったところに現れた、この老人。
「助かった」
とマスターは思っただろう。
実際に、これから、洗物などの仕事が溜まってくる時間だということもあってか、老人も、よくわきまえていると言ってもいいだろう。
老人が、何も言わずに、話のバトンタッチをしたわけだが、話に入ってきてからの老人は饒舌であった。
「完全に、主役の座を奪うのではないか?」
と思えるほどで、洗物に勤しんでいるマスターもびっくりして顔を挙げたくらいだった。
初老の男性というのは、やはり、時代が、SFに対しては、
「昭和のピーク」
といってもいい時代で、ただ、日本において、SFというのは、小説においても、映画においても、どうしても、目立たない存在だった。
それにくらべれば、
「日本独自の文化」
と言っておいいマンガやアニメの世界では、結構SF系のものはあると言ってもいいだろう。
「スペースなどの宇宙物の戦争」
であったり、
「タイムトラベル系の話」
なども、賑やかだった時期というのが、前述の、
「半世紀前の昭和のピークだ」
と言ってもいいのではないだろうか?
それを確実に知っている。
知っているどころか、少年期から青年期で味わったのではないか?
と思える時期なので、特に、その造形の深さを感じるのであった。
山本も、
「ロボットアニメ」
などの、ピークではあったが、それでも、
「創成期」
と呼ばれる時代に比べれば、どうしても、目立たあない。
それを思えば、この男性を見ていて。
「さすがだ」
と思わざるを得ない。
国の寿命
この老人と話をしていると、どこかが何か狂っているかのように感じられた。自分の話に何ら意義を唱えることをせず。それでいて、自分から意見を述べることもない。典型的な引っ込み思案な人間という風に見えるのに、どこが狂っているというのだろう?
やはり。最初からこちらの話をずっと聞いていて、何も言わずに、今まで黙っていたことで、それなりに何か意見もあるはずなのに、何も言おうとしないのは、そこに、何ら自分の意見としての考えが潜んでいるということであろう。
だが、その意見をいかに表現すればいいのかということが分からないということか、ハッキリと表現ができないのは、意見を持っていないからだと思われても仕方がないのに、そうは見えないところが、狂っていると感じさせるところなのだろうか?
そんなことを考えていると、歴史の話をし始めた自分に対して、何か違和感を感じさせるのであった。
というのも、
「俺は、歴史の話に導こうとは思っていなかったはずなんだけどな」
と感じたからだ。
確かに、タイムトラベルの話よりも、歴史の話の方が好きなので、歴史の話に誘われているというのは、無理もないことだと思う。
しかし、それも、
「自分からしよう」
と思うのでなければ、相手に誘われているわけで、それは、自分としては、不本意に感じることであろう。
確かに、違和感というものはある。だがその違和感は、あってしかるべきもので、
「自分からしようと思ったわけではないのに」
と感じることであった。
しかし、
「違和感」
というものと、
「何かが狂っている」
ということが同じことだといえるのだろうか?
山本はそうは思わない。どちらかというと、
「狂っている」
という方が強いわけで、それは、
「違和感というよりも、状況が先に進んでいる」
ということになるのではないかと思うのだった。
それを考えると、山本という男が、歴史の話をしたいと思うのは、
「少しであるが、タイムトラベルの話をしていて、この人なら、歴史の話をしても楽しいはずだ
と感じたからだ。
いや、
「自分が「感じるのだから、相手だって感じても悪いわけではない」
と思った。
その方が自然であり、そう考えれば、話が歴史に変わっていったとしても、そこに違和感などないはずで、ちゃんと納得できる答えがそこにはあるということになる。
それでも、
「何かが狂っている」
と感じるのだ。
それは、
「違和感を感じる」
ということよりも、
「何かが狂っている」
と最初に感じたからで、
「もっといえば、この二つを同時に感じるということは、普通であればあり得ない」
と言ってもいいのではないだろうか?