対となる能力
と感じたが、こちらが、その人の頷きに気づくと、こちらの話に頷いてほしいと思っているところで頷いてくれていることに気づいた。
「なるほど、この人は、さりげない気の遣い方がうまい人なんだ」
と感じた。
というのも、この男性は、
「こちらが頷いていることに気づいているかどうかを図っていたんだ」
と分かった。
こちらが気づいてもいないのに、勝手にうなずいていると、相手の失礼だと感じたからに相違ない。
そんな風に考えていると。
「この人は、別に悪い人ではないんだ」
と感じ、最初に、
「薄気味悪い人だな」
と感じたことに対して、
「失礼なことをした」
と思うと、やはり、こちらの気持ちが分かるのか、その人は納得したかのような表情になったのだった。
「失礼なことをしているわけではなく、その表情は、こちらの納得がいくようにしているのだ」
と分かると、そもそも、相手が何を考えているかなどということを考えたこともなかったはずの自分が、相手にばかり、何かを求めていたということを思うと、少し恥ずかしい気持ちになるのだった。
「自分が人に気を遣うなんて」
と思ったのも、この時が初めてだったのだ。
人に気を遣うということを、山本は、子供の頃からするのは嫌いだった。
時に、親からは、
「人には気を遣わなければいけない」
と言って、教育されてきた。
しかし、
「人に気を遣うということがどういうことなのか?」
ということが分かるわけではなかった。
分かったといっても、理屈で分かったわけではなく、
「親がいうから、しないといけない」
ということでの、
「損得勘定」
によるものだったからだ。
そんな損得勘定でしか動けないと思う自分が情けなく、それが、親から洗脳されているのだと考えると、さらに情けなくなる。
そのうちに、
「納得していることであっても、すべてが洗脳だ」
と思うようになり、それが、要するに、
「トラウマによるものだ」
と感じるようになったのは、中学生になってからであろうか。
しかし、中学生になると、すでに、
「受験戦争」
という子供の頃の中では、抜け出すことのできない中から、どのように、
「自分が理解したことなのか?」
あるいは
「トラウマによる洗脳なのか?」
ということが分かるというのか。
それを考えると、
「損得勘定」
なのか、
「洗脳なのか?」
そのあたりをいかに自分で理解できるかということが、問題だったのだ。
そのうち、
「歴史」
であったり、
「タイムトラベル」
というものの話に造詣が深くなると、
「いよいよ、自分の発想が、大人に近づいてきたのか?」
と思うようになった。
中学生では、よく
「中二病」
と言われるような、妄想に駆られ時期があるというが、山本には、
「中二病」
と呼ばれる時期は存在しなかった。
それは、
「最近の季節で、秋がない」
と言われるものと代わりない感じであった。
「子供の発想から、いきなり、大人の発想になる」
と考えると、
「子供から大人になるまでの段階が、自分にはなかったのかも知れない」
と感じるようになったのだ。
これは、今となって感じれば、
「あまりいい傾向だったのではない」
と思えるのだった。
急に成長するというのも、あまりいい傾向ではない。その年齢にはその年齢で、
「越えなければいけない段階がある」
といえるだろう。
それを分からなければ、
「他の人と話も合わない」
ということであるし、話が合わないと、成長したのかどうかも、自分で分からない。
分からないというよりも、納得できないということで、納得できないことで、大人というものがどういうものなのかが、分かってこないということになるのだろう。
話は、タイムマシンや、タイムトラベルの話をしていて。三人で、最初は盛り上がっていたのだが、そのうち、マスターが、仕事が忙しくなってきたのか、その話から、少し離れていった。
離れたというよりも、
「脱落していった」
といって方が正解だったかも知れない。
実際に、話は、初老の男性と、山本の話になってきたからだ。
というか、
「最初はマスターと山本の話であったが、山本の話のテンションはそのままで、マスターの話の内容とテンションが、そのまま初老の男性に移っていった」
ということで、それも、
「山本との話で、別に相手は徐々に話のテンションが移っていったが、その移動に違和感はなかった」
といえる。
それを考えると、マスターがうまいのか、初老の男性がうまいのか、山本に気づかせないように、うまく二人の間で、
「引継ぎがうまくいった」
といってもいいだろう。
しかも、そのことを、山本は気づいていた。
つまり、
「マスターと、初老の男性の引継ぎがうまかった」
といえるのか、それとも、
「山本の対応がうまかった」
といえるのか?
そのどちらもだということなのかも知れない。
こういう場合、必ず、どちらかがぎこちなくなる。
だから、こういう綱渡りなことは、普通はやらないだろう。
それをやってのけるのだから、
「ここでの登場人物である三人は、ここで知り合ったのが偶然であっても、運命だといえるのではないだろうか?」
つまり、
「運ということが、必然なのか偶然なのか、そのどちらであっても、説明がつく」
というのは、この場合の三人に言えることではないだろうか?
話の内容は、次第に深いところに入ってきそうになっていたが、それを誘導したのは、初老の男性の方だった。
「こんな老人に、このようなSF的発想ができるのだろうか?」
と思った。
最初は、
「しょせん、昭和の昔の発想だから、まだよく知られていない時代だっただろう」
とタカをくくっていたが、
「どうして。そんなことはなかった」
むしろ、昭和の時代の方が、難しい話にはついてこれるようで、たまがって見ていると、それを察したのか、初老の男性は、
「昭和人間にここまでの発想があるのにはびっくりしただろう」
と、山本の考えていることくらいは、お見通しとばかりに、いうのだった。
「ええ、まさにその通りです」
と。いうと、
「昭和の頃の方が、意外と発想という意味では、豊富だったかも知れないよな。だけど、時代が進んでくると、今度は、途中で進まなくなってくる。タイムパラドックスの問題であったり、発想というものには、段階があるので、その段階が飽和状態になると、そこからなかなか進まなくなってしまったりする。それが、ちょうど平成から令和に入った頃で、そこに、何といっても、昭和の頃に一番のピークだった時代から、半世紀が経っている。その間に、目新しいことは何一つ生まれていないわけだから、発展のしようがないというものではないのかな?」
というのであった。
その説得力は、言葉にもあるが、初老の男性の中にある、オーラのようなものではないだろうか。
そんなオーラと、発展しようとする時代の流れとが、うまく符号しないと、結果として、
「交わることのない平行線」
となるのではないだろうか。
実際に平行線というものが、交わらない」