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「共犯の因果応報」と「一周回った完全犯罪」

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「いいくにつくろう」
 というのが実は違うという話もある。
 こちらは、あくまでも歴史認識ということで、解釈がいろいろある中で、それでも、今までの言われていることでは、歴史認識が許さないということになったということで、センセーショナルな歴史解釈の変更であった。
 そういう状態が続いているせいか、
「今まで歴史が嫌いだ」
 と目されてきた女性たちが、歴史を好きになるという現象が起こってきたのだ。
 そんな彼女たちを、
「歴女」
 と呼ぶようになり、
「歴史人口と言ってもいい人たちの人数が爆発的に増えてきた」
 と言ってもいいだろう。
 同じ歴史を勉強する人の中には、
「歴史を学問として勉強する人」
「考古学として、実際に発掘など目覚める人」
「名所旧跡を渡り歩いて、歴史に実際に触れようとする人」
 とそれぞれがいる。
 今回の死体の発見をした人は、その中でも一番最後の、
「名所旧跡を見て歩く人」
 ということで、その人が入り込んだのは、
「戦国時代の山城址」
 であった。
 お城というのは、日本独特の文化というものであり、時代としては、古くは、
「古代の山城」
 ということで、飛鳥時代、つまりは、
「今から、1300年くらい前から続いている」
 と言われている。
 大化の改新のあたりで、朝鮮半島で、日本と友好な関係にあった百済という国が、近隣の、新羅、高句麗の連合軍に攻め込まれ、滅亡の危機に追い込まれていた。
 その百済の使者が、日本に救援を求めてきたのである。
 当時の日本は、
「大化の改新」
 の真っ最中であり、クーデターによって滅ぼした蘇我氏に代わり、当時の天皇である、
「中大兄皇子の母親である斉明天皇(皇極天皇の重祚)や、クーデターを起こした中臣鎌足、中大兄皇子らによって、百済救援が決定した」
 ということであった。
 しかし、実際に朝鮮半島に兵を送ったが、日本軍は、
「白村江の戦い」
 にて大敗を喫したことで、今度は、
「朝鮮からの侵略の危機」
 に襲われたのだ。
 そこで、筑紫の国に、せめてくることを見越して、石塁を作ったり、山城を作ることで、その侵略の防衛に賭けたのだった。
 実際にはせめてくることはなかったが、その頃の山城というのは、戦国時代の山城とは違い、そのほとんどは、砦のようなものでしかなかったということである。
 それが、室町時代初期の南北朝の時代に、守護の砦ということで、大名が砦を気づいたのが、
「戦国時代において自分たちを守る」
 ということのための城。
 ということになってきた。
 だから、いわゆる、近代城郭と呼ばれるものはまったくなく、それこそ、戦国時代でも後期になってくると、やっと、平城や、平山城というものが築かれてくるのだ。
 そもそも、平地に、武家屋敷があり、敵が攻めてくると、山に出城を作ることで、、そこに籠城するというのが、戦国時代の城だった。
 だから、守るための土個や虎口と呼ばれるものの中に、櫓を組んで。そこから弓矢などで、応戦するというのが戦闘スタイルだった。
 それが、時代が進んでいき、
「鉄砲伝来」
 などの影響で。
「戦のやり方が革命的に変わった」
 ということで、実際の戦が、どのようなものになったのかというと、
「城が平城になり、城郭の中に屋敷や櫓を立て、さらに、中心には、天守がある」
 という形になってきた。
 天守がある城というのは、最初は珍しかったが、戦国大名の権威を示す必要があるということで出てきたのが、天守建設であった。
 守りには、内堀、外濠という、
「水濠」
 というものがめぐらされ、そこから大手門を渡り、城内に入るというものだ。
 そして、濠から城に向かっては、石垣が組まれるようになり、敵の侵入を食い止めるということであった。
 そして、石垣の上の主要な場所に、櫓という見張りがあり、絶えず城から、侵入者を警戒していたというものである。
 それを、今では一般的に、
「城」
 というので、人によっては。
「天守がなければ城ではない」
 という大きな勘違いをしている人がいるが、そんなことはない。
「城というものの役割を考えれば、おのずと分かってくる」
 というものであろう。
 今回の
「死体発見」
 の舞台となった山城は、元々は、南北朝時代に築城されたものが、
「戦国初期において、重要な合戦の舞台になったところ」
 ということで、ひそかにファンの間で注目されているところであった。
 一応、
「県の重要文化財」
 ということで保護されてはいるが、平城のような、
「観光地」
 というわけではなく、まさに、
「オリエンテーリング」
 にでもいくかのような場所だったのだ。
 そこでは、
「道なき道をいく」
 と言ってもいいところで、それなりに道はできてはいるが、その道の奥に進むには、
「登山の装備をしないといけない」
 というくらいで、靴も安全靴が必要であったり、ヘビなどの対策もしておかないといけないようなところであった。
 だから、
「ここに入り込むのは、よほど歴史が好きな人で、山に慣れている人でないとなかなか来ない」
 ということもあり、死体の隠し場所としては、好都合だと思ったのだろう。
 しかし、
「死体を隠すとしては、中途半端だ」
 と、歴史好きの人は思うことだろう。
 一応は、山城の探索ということでは、この辺りでは有名なところであり、ちょっと考えたり、調査をすれば、
「結構、歴史好きが集まってくる」
 ということが分かりそうなものだった。
 それを考えると、
「どうしてここに?」
 と考えた歴史好きの人は、
「死体を発見してほしいけど、少しでも遅らせたい」
 という思いがあったのではないか?
 と感じたのだ。
 そこで、
「そのことを、警察に知られたくないという思いが一番の目的だったのではないだろうか?」
 ということで、死体の隠し場所をここにしたのだろうと思ったのだ。
 死体は、白骨にもなっていなかった。もう少し経てば、白骨化していたかも知れないということであるが、歴史好きの人から思えば、
「今回の死体の発見は遅かったくらいだろう」
 と思った。
 新聞に載っていた内容で、
「死体の腐乱状態から、殺害されたのは、数か月前だ」
 ということだったが、彼らからすれば、
「あの場所にあって、どうして他の人が見つけなかったのだろう?」
 と思うと、
「途中で死体を動かしたのか?」
 と考えた。
 つまり、
「殺害からしばらくは別の場所にあり、ほとぼりが冷めた頃に、この場所に移してきたのではないか?」
 という考え方であった。
 しかも、
「ここであれば、歴史ファンや、お城ファンが、ひっきりなしに訪れる」
 ということが分かっている。
 それも、皆が分かっているわけではなく、歴史ファンの一部が分かっていて。しかも、「あくまでもご当地だ」
 ということになるからであろう。
 それを考えると、
「犯人が何を考えているのか、刑事の中に歴史ファンがいれば、ある程度分かる気がする」
 ともいえるのだった。
 ただ、警察も鑑識の見分によって、
「死体が動かされたかも知れない」
 ということは分かっていた。
 しかし、