「共犯の因果応報」と「一周回った完全犯罪」
「最善の方法であっても、結果がうまくいかなければ、最善の方法だということで判断した方が、いくら良かれと思ってやったとしても、責められる」
ということになるのだった。
もっといえば、
「何かが起これば、最終的には、誰かに責任をかぶってもらわないといけない」
ということになるであろう。
実際に、
「世の中というのは、古今東西、誰かが最終的に責任を取らないといけない」
という風に決まっているのである。
ということである。
確かに、
「誰かが犠牲になる」
というのは、
「何が起きても無理もない」
という時代であれば当たり前のことだ。
だから、国家というものが存在し、そこには、それぞれの社会というものがあり、社会には、
「身分があり、それ相応の立場と力から、社会というものが成り立っている」
ということである。
特に、その象徴ともいえるのが、特に日本で起こった、
「封建制度」
というものではないだろうか?
そもそも、弥生時代から、クニというものができて、農作のための土地や水を求めて、
「戦が耐えない世の中になった」
ということである。
そして、そのそれぞれのクニがどんどん一つになっていき、強大な国家が形成されるようになると、
「まわりの国家に対抗するため」
あるいは、
「人民に対して、国主の力を見せつけることで、国をまとめる」
ということから、
「国家体制というものは、それぞれの身分が大切」
ということになるのだ。
国家の力が弱まって、国家の中が分裂してくると、
「戦国時代に突入する」
ということになる。
すると、
「それぞれの領地で、力が均衡しているまわりの国と戦に明け暮れ、結局。元々は、コメを作るための土地であったり、それらを守るはずの武士というものが戦によって、土地を荒らしてしまう」
という、
「悪循環になってきた」
ということである。
そこで、
「天下を統一して、戦のない国を」
ということで、
「天下人」
というのが出てきた・
ということであるが、これも、実は、
「詭弁である」
ということになるのかも知れない。
最終的に、国家を一人でまとめ、中央集権の国家を作ったとしても、その長に当たる人間の棟三寸で、結局は、
「国家が乱れる」
という時代を迎えるのかも知れない。
しかし、最後には、
「戦のない世界」
ということで、出てきた徳川家康が、
「徳川幕府260年の基礎」
を築いたのだ。
「大阪の陣」
というものが終わり、豊臣家の滅亡によって、
「戦のない時代」
ということから、年号を、
「元和」
に改め、
「元和偃武」
というスローガンによって、
「戦のない時代の到来」
というもおのを宣言したのであった。
それにより、幕府の基礎ができたわけだが、そこから、幕府による、
「中央集権」
言い方を変えれば、
「独裁政治」
というものが出来上がったのだ。
何といっても、戦をなくすには、一番直接的なのは、
「反乱を起こさせない」
ということであり、そのための、
「改易」
であったり、
「鎖国政策」
「参勤交代や天下普請などによって、諸藩の財政を困窮させることで、幕府に逆らうことがないようにする」
というものである。
そのために、
「士農工商」
という身分制度の徹底というのも、できたということだ。
子供の頃に社会科で習った時は、
「なんて、江戸幕府というのは、ひどいことをするんだ?」
と思ったものだった。
一緒に習った、近代史における世界史の中にある。、
「ファシズム」
という、
「独裁政治」
というものから。
「ファシズムも、封建制度というのも、古い体制ということで、悪い体制なんだ」
という風に教えられた気がした。
特に、戦後、今の民主主義を、連合国に押し付けられたことで、
「古い悪しき時代」
ということで、
「古い体制は、いいものではない」
と頭に叩き込まれた気がする。
確かに、
「古い体制は、反発があるから、滅んでいったのだ」
ということになるのだが、実際に、
「今の時代だって、いつ滅亡しないとも限らない」
ということである。
特に、今の時代、ここ4、5年というものは、
「誰がソーリになっても一緒だ」
と言われていて、そもそもは、
「今のソーリが変われば、少なくとも、マシになる」
と言われ、歴代ソーリの末期には、皆同じことを感じたものだった。
しかし、ここ数年のソーリを考えてみれば、
「今のソーリが変われば、よくなるはずだ。他の人であれば誰がやっても、同じではないか?」
と言われていたが、実際に、ソーリが変わったら、すぐに、
「なんだ、これだったら、前のソーリの方がマシだった」
ということになる。
だから、今の時代は、
「誰がなっても一緒だ」
ということで、本来なら、辞めさせなければいけないはずのソーリが、なかなかやめないのである。
つまりは、
「他にできる人がいない」
あるいは、
「もしこれ以上ひどくなったら、亡国の一途だ」
ということになるであろう。
それを考えると、
「今の政府は、すべてを通り一遍でしか判断することができない」
ということで。
「自分たちがマニュアルを作る」
と言っても、それを作れる人間がいない状態で、それを有識者などに任せていて、出来上がったものを見て。
「自分たちの利益を損なったり」
あるいは、
「自分たちの立場が悪くなるようなものは、了承しない」
ということになるだろう。
以前、
「世界的なパンデミック」
が流行した時、
「その正体が分からない」
ということで、どのように対処すればいいかという、
「専門家委員会」
というものを作り、政府発表で何かあった時は、
「専門家委員会で競技し、それを参考に、政策を立てるようにします」
と政府は建前として言っていたが、実際には、それが建前であるということを立証しているがごとく、
「結局は、専門家委員会に相談するということは、口でいうだけで、国民をどんな政策であっても、専門家委員会が了承したのだから、という名目で、自分たちに都合よく政治を行うというだけの、防波堤のようなものに仕立てている」
というだけのことであった。
それは、まるで、時代劇でいうところの、
「勧善懲悪」
に対しての、
「悪代官」
の立場と同じではないだろうか?
結局は、たくさんの疑問がありながら、警察は通り一遍の捜査しかせずに、結局は、
「チンピラの喧嘩による、傷害致死」
ということで処理された。
だから、
「死んだことに関しては、殺意はなかったもの」
ということで、懲役とはなったが、結局は、模範囚だったということもあって、二年くらいで仮釈放となり、そのまま出所したということになったのだ。
あれから二十年
傷害致死事件など、あっという間に世間から忘れ去られる。いくら、殺人事件というものがほとんどない土地柄と言っても、
「殺意がなかった」
とされた事件など、誰が意識しているだろうか。
作品名:「共犯の因果応報」と「一周回った完全犯罪」 作家名:森本晃次