「共犯の因果応報」と「一周回った完全犯罪」
と思っていたが、結局は、曖昧な状態のまま、警察の力も及ばないまま、グレーな状態で、月日だけが過ぎていき、何も解決しないまま、西田は、弁護士の力というものと、
「出頭してきた」
ということから、裁判では、被告の優位に進んだ。
何といっても、弁護士の言い分をひっくり返すだけの力も何もなかったのである。
そんな世の中において、
「何が正しい」
というのか、それを考えると、警察というものに力がないということがハッキリとしたことで、鈴木刑事は、それから少しして、退職することになったのだ。
清水刑事としては、
「辞めることはない」
と言って話をしてくれたが、警察すべてに嫌気がさしたので、それまで尊敬していたはずの清水刑事にまで、疑惑の目が向いてしまったのだ。
「俺が警察なんかにいてもしょうがないし、警察を信じた俺がバカだったんだ」
と鈴木刑事は思ったのだ。
鈴木刑事の父親も、実は警察官だったのだ。
昔から、交番勤務をずっと続けてきて、45歳のなるまで、ずっと交番勤務をしていた。
しかし、そんな時、警ら中に、たまたま銀行強盗が発生したことで、夜間警報が鳴ったことで駆けつけると、そこには、犯人たちが、待ち構えていた。
彼らは、警察が来ることを予知はしていただろうが、
「現金を盗む」
ということに必死になっていたことで、制服警官である父親が早く来るということを失念していたようで、父親が、
「動くな」
と言って飛び出したところで、意表を突かれ、ビックリしてしまい、持っていた拳銃で父親を射殺したのだった。
本当は、
「誰かが来るまで、待っていなければいけなかったはずだ」
ということであるが、正義感の強い父親は、拳銃に臆することなく、相手の前に立ちふさがった。
相手も、
「まさか警官が勇敢にも、いきなり飛び出してくるなんて思ってもみなかった」
と考えたことで、とっさに反撃したのだろうから、
「お互いに、とっさのことでどうしようもなかった」
ということであった。
その時、まだ中学生だった鈴木少年は、
「自分のことを、怖がりだ」
と思っていた。
実際に、その頃までは怖がりで、小学生の頃までは、いじめられっ子だったのだが、逆らうこともできないほどだったのだ。
それを、自分では、
「平和主義者だ」
と思っていた。
実際には、怖がりだということを言わないようにしていたといってもいいだろう。だが、そんな子供でも、中学生になると、
「俺は怖がりなんだ」
ということが分かってきた。
子供の頃いじめられっ子だったのは、
「虐められるだけの理由がそれなりにあった」
ということを中学に入ると自覚したのだ。
というのも、小学生の低学年の頃は、勉強が苦手だった。
その理由として、
「低学年の時の、勉強の基礎というものがまったく分かっていなかった」
ということであったが、
それは、
「理解できないと、納得できない」
ということで、
「勉強の基礎の基礎というものが、最初から納得できるというものではない」
ということが分からなかったことで、納得がいかないことで、先に進むことができなくなり、そこで自分が劣等生であるということを感じてしまい、別にまわりからバカにされているわけではないのに、バカにされているかのような錯覚を覚えたのだった。
しかし、高学年になると、やっと、
「理解しなくても、納得さえすればいい」
ということが分かった。
その良し悪しに対して、それが正しいのかどうか自分では分からなかったが、
「納得」
というものができるようになったのだった。
しかし、納得できないということで、まわりに対して卑屈になっていたことから、今度は自分が彼らよりも成績がよくなると、
「彼らよりも俺は頭がいいんだ」
ということで、まわりに対して、
「自分には、優劣があるんだ」
ということに納得してしまい、成績のよさをひけらかして。まわりを蔑む態度に出てしまったのだ。
先生も、自分の成績のよさから、自分に贔屓しているような感じで、余計に、増長してしまった。
しかし、まわりの大多数の生徒が、彼本人に蔑まれることで、まわりの大人も、彼に味方をするような態度に出ると、生徒だけで、彼を虐めるようになったのだ。
これは、今の時代の苛めというものと違い、
「虐められる側にも原因がある」
という、一世代前の、
「苛め」
と言ってもいいだろう。
しかし、この
「一世代前の苛め」
というのは、
「苛め」
という言葉が当てはまるというものではない。
どちらかというと、
「苛め」
という社会現象ではなく。
「いじめっ子」
というものと、
「いじめられっ子」
というもののそれぞれが存在することで、社会現象というわけではなく、
「それぞれの立場にそれぞれ理由がある」
ということが言葉の上でもハッキリとしたものだった。
今の時代の
「苛め」
というのは、あくまでも、それぞれの立場や言い分があるにも関わらず、一つの言葉で社会問題化してしまったことで、
「問題が曖昧」
ということになったのだ。
それこそ、
「グレーゾーン」
と言ってもいいだろう。
ハッキリとした形のものが形づけられているものではなく、その事案一つ一つで違っているのに、それを社会は、
「一つの社会現象」
ということで、一絡げにして片付けようとするから無理があり、
「それが、違った道だったら、取り返しがつかない」
ということが分からないのだ。
だから、特に今の時代は、社会問題が勃発すると、その解決として、
「プロジェクトチーム」
というものを作り、本来であれば、その事案ごとに、一つ一つ積み重ねた証拠であったり、事実を一つの考え方として積み重ねなければいけないのに、それをしないことで、どうなるのかということが分かっていないのだった。
しかも、万が一、運が良くて、
「一つの事件がうまく解決できたとすれば、その事例が、解決のためのマニュアルとして、すべてに優先される」
ということになるのだ。
確かに、それで解決できる場合もあるだろうが、話の根本が違っていれば、すべては、悪い方に向かうということが分からないのだろう。
たとえば、
「何かの伝染病の予防接種というものがあったとして、その種類がいくつかあった場合、過去の症例であったり、気象状況や、自然環境などを十分に考慮して、今年は何が流行るということを想定して、ワクチンを接種する」
という予防接種があるとしよう。
特に、今では、
「インフルエンザなどがその例であるが、科学的に研究を重ね、何が流行るかということを予測する」
ということで、実際には、
「これが、最善の方法」
ということであっても、それが本当に正しかったかどうかは分からない。
確かに、
「他の種類が蔓延したとしても、蔓延しないような効果があったり、重症化しないという効果だってある」
ということが言われている。
それを考えると、
「ワクチンというものの効果というのは、まるで、博打のようなものではないか?」
と言われたりしているのだ。
それを考えると、
作品名:「共犯の因果応報」と「一周回った完全犯罪」 作家名:森本晃次