もろ刃の剣の犯罪
「どんな形であれ、歴史に興味を持ってくれるというのは嬉しいことだ」
という人が増えてきたことに、須藤は感心できなかった。
だから、そんな、
「歴史ヲタク的」
な連中が出てきたことで、戦国時代ではなく、他の時代に興味を示そうとして考えたのが、
「戦前戦後」
だったのだ。
こちらは、
「探偵小説」
というものから興味を持ったので、最初に気になったのが、この戦前戦後という時代で、ただ、この時代を理解しようと思うと、
「さらに時代をさかのぼる必要がある」
ということになったのだ。
それが、
「歴史の探求」
というものであり、結局は、
「マシュー・ペリーによる黒船来航」
にまでさかのぼるということになるのだった。
実際に時代をさかのぼっていくと、
「幕末に興味を持つ人の気持ちも分かる気がする」
と思ったのだが、須藤自身は、
「幕末よりも、明治の対外戦争に向けての時代背景の方に、興味を持った」
というのは、
「実に俺らしい」
と感じたのだ。
「やはり、俺って天邪鬼なんだろうか?」
と考えていた。
そして、その頃から、
「歴史の文献を見るのは、ノンフィクションに限る」
と思うようになっていた。
小説の世界には、
「歴史小説」
というものと、
「時代小説」
というものの二つがあると言われている。
「歴史小説」
というものは、ノンフィクションであり、
「歴史においての、事件」
であったり、
「一人の人物にスポットを当てて、その生涯を描く」
というものを、きちっとした時代考証で描くというのが、歴史書うせつぃと言われるものであった。
それに比べて、時代小説というのは、まったく違ったものであった。
というのは、
「時代小説というのは、歴史小説と違って、フィクションである」
ということだ。
もちろん、時代背景としての事件であったり、人物は、基本は、
「架空ではない」
ということであるが、すべてをフィクションということにしてしまうと、それはもはや、
「時代小説ではなく、ファンタジー小説」
ということになるというものであった。
つまり、時代小説というものは、
「史実に基づいた事件や戦などで、史実とは違う結末であったり、結末は同じだが、そこに史実にはない、あるいは、奇想天外な架空の話をぶち込むことで、エンターテイメント性を最優先とした物語」
というものを描くというものである。
ある意味、
「二次創作」
にも近いが、二次創作のように、
「リスペクトする元々の話」
というものがあるわけではない。
そもそも、二次創作というものは、その原点となる話すら、
「フィクション」
ということであるので、
「時代小説」
というものと、根本的なところでその発想が違っているといっても過言ではないだろう。
そんなことを考えていると、
「歴史というものを見る時、真摯に向き合いたい」
という考えから、
「基本的には、史実に基づいた歴史得本」
というものであるが、せめて、
「歴史小説」
というところくらいになるであろうか。
あくまでも、
「勉学のための参考資料」
ということで読むものなので、
「フィクションであってはならない」
と思うのだった。
小説を読むのは、その反動からか、
「フィクションだけ」
であった。
あくまでも、
「小説というのは、想像力、さらには、妄想」
ということで、
「自分が知らない、興味を持ったものの想像力を掻き立ててくれるもの」
というエンターテイメント性を小説に求めるということであった。
そういう意味で、最初から、
「現代小説」
というものに興味を示さなかった。
かといって、
「ファンタジー小説:
というものにも興味を示さないどころか、嫌悪感すら感じていた。
というのも、特に、
「異世界ファンタジー」
と呼ばれるものは、ある時期を起点として、爆発的に人気になり。
「猫も杓子も。異世界ファンタジー」
と言われるようになった。
それ以外に、
「ライトノベル」
と呼ばれるものも出てきたのだが、こちらは、
「マンガの原案になる」
ということで描かれるものであった。
実際に、映像作品などで、最近は、そのほとんどが、
「元々はマンガ」
というのが多かった。
今から半世紀ほど前、つまり、
「テレビ創成期」
と呼ばれる頃は、
「マンガが原作の作品もアニメとしてではなく、実写版で製作される」
というのがあったが、それはあくまでも、
「予算の問題」
というのか、
「まだまだアニメ制作に従事する人が少なかった」
ということからなのか、これがカラーテレビが出てきた頃に、やっとアニメ制作が行われるようになったのだった。
昔の特撮というと、
「糸が見えていたり、映像化の欠点」
というものが多かったりして、陳腐なものだという時代があったが、今見ると、
「却って新鮮だ」
と言われるようになったりした。
ライトノベルの場合は、そんなテレビ創成期とは違う意味で、
「時代が一周したのかも知れない」
と言われるが、その理由として、
「今のマンガが、SFなどのような架空というよりも、日常生活に近い形の架空の話」
というのが多いというのがその理由だろう。
「ヒューマンたちなフィクション」
というべきか。
「昭和の時代であれば、ハードビルドのようなサスペンスであったり、スポーツ根性ものと呼ばれるものなどが多く、それが小説の世界やマンガの世界から、映像化作品として生まれていたが、それは、現実社会とはかけ離れたところで、その面白さが醸し出されいた」
という時代だった。
しかし、今の時代は、
「フィクションであっても、なるべく、実生活に近い形で、描く」
というのが、その根底にあった。
というのは、
「俺の場合は」
あるいは、
「私だったら」
ということで、
「自分の身に置き換えてみる」
ということで描かれた作品に、同調する気持ちになるということであろう。
特に、
「学園ものであり、クラスメイトの女の子に恋をするという恋愛小説が、読者の心をうつ」
ということで、
「実写化されても、却って、その面白味が、立体感覚で分かる」
ということなのであろう。
これは、
「イメージとして、パラレルワールドの感覚なのかも知れない」
と感じさせる。
つまりは、
「実写化とマンガとでは、明らかに違う」
というのは、
「マンガというのは、どうしても、原作者の個性が入るということで、登場人物の顔が似てくる」
ということになる。
気にならないという人は結構いるだろうが、須藤という男は気になってしまうのであった。
だから、
「俺はマンガが嫌いだ」
と普段からうそぶいていた。
特に、
「大人になってまで、マンガを見るなんて」
という思いがあるのは、
「小説というものが、一番だ」
という自負があり、その理由に、
「想像力は、小説に敵うものはない」
と感じたからだ。
営巣作品しかり、マンガも同じだった。
だから、最近の、
「ライトノベル」
というのも嫌だった。
その前身といってもいいような、
「ケイタイ小説」