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もろ刃の剣の犯罪

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 というイメージが強く、パトカーに乗っているよりも、自転車で見回っているという感覚が強いのは、
「テレビのサスペンス劇場」
 などで、
「いろいろな職業の人が探偵として事件を解決する」
 という、一種の、
「安楽椅子探偵」
 と呼ばれるシリーズが人気だった時代に、
「交番」
 というよりも、
「田舎の交番」
 ということで言われている、
「駐在所勤務の駐在さん」
 というものの活躍が人気だったりする番組の影響が大きいのかも知れない。
 今では、警察も人手不足からなのか、経費節減ということからなのか、交番の数もままならないという状態で、
「人手不足というのが、今の時代の社会問題」
 ということを、表しているということであった。
 街中の公園で、ホームレスがいたりすると、
「交番の警官に余計な仕事が増える」
 ということも、
「ホームレスの駆除」
 ということに、少なからずの影響を与えているといってもいいのかも知れない。
 そんな夜の公園なので、もちろん、
「パトロールを怠る」
 ということはありえないが、その場所に使う時間は、劇的に少なくなるということで、ホームレスがいないのはありがたいことだった。
 だから、実際に、
「夜の公園で何かの事件が起こった」
 ということはそれほどあることではなかったのだ。
 特に、年が押し詰まってきた時期というのは、あまり問題が起きる時期ということはなかった。
 特に、今の時代は、都心部では、11月の頭くらいから、年始くらいまでの2カ月以上にかけて、イルミネーションが明るいという時期がある。
 昔と違い、LED電球というのは、電気代がかからないということで、昔ほど、もったいないと言われることはなくなった。
 それでも、毎晩つけているというのは、それだけの費用は掛かるというもので、あくまでも、スポンサーありきということである。
 ネオンサインというと、昔とは、明らかに変わっていた。
 昭和の頃のネオンサインというと、
「とにかく明るくて、目を引くもの」
 というものが当たり前であり、特に、
「バブル時期」
 というものは、お金がかかるのは別に気になることではないというもので、
「会社の宣伝というものに、一役も二役も買っている」
 といってもいいだろう。
「イルミネーションは、明暗によって、グラデーションを作る」
 ということで、そのグラデーションが印象深ければ深いほど、宣伝になるのではないだろうか。
 そんなイルミネーションが、実は電気を食うといってもいいだろう。電気の点滅のたびに電気代を食うということで、バブルの時期であれば、そこまで気にもならないが、バブル崩壊を受けて、イルミネーションに金を掛けるわけにはいかないということからか、次第に、ネオンサインというもので宣伝をしても、費用対効果という意味で、却って赤字になると考えれば、ネオンサインが、時代とともに変わってきたというのも分かるということであろう。
 だから、
「いつの間にか、昔のようなネオンサインがなくなった」
 と感じるようになったのであった。
 ネオンサインの明るさは、正直、目に悪いというものだった。
 実際に、テレビのアニメで、今から20年くらい前のことだったか、
「強烈な明かりというわけでもないが、ネオンサインのような目立つ効果を表すものを使った」
 ということで、視聴者が、
「瞬間的に視覚障害に襲われて、吐き気や気分の悪さを催した」
 ということで社会問題となったことがあった。
 その時にやって、
「光というものが、場合によっては、人間の機能に害を与える」
 ということになると分かったのである。
 だから、もしネオンサインが前のままだったということであれば、
「アニメによる苦情」
 が起こる前に、いつしか、ネオンによる、
「光害」
 という形のものが出ていたということになるのではないだろうか。
 特に。夜というと、
「都心部であったり、繁華街というところは眩しいが、それ以外のところでは、眩しさというものはなく、真っ暗にならない程度の明るさ」
 というものがあるくらいだった。
 それが、公園であったり、裏路地などがそうであろう。
 ビジネス街の大通りもそうかも知れない。それだけ、昼と夜とでは、いくら、
「眠らない街」
 とはいえ、
「まったく違う顔」
 というものになっていることであろう。
「繁華街の近くにも、公園はあるが、ビジネス街近くの公園とは、どこかが違っている」
 と感じている人も少なくはない。
 ただ、都心部のベッドタウン、つまりは、
「住宅街にある公園」
 というものとは、その性質が違っている。
 というのは、
「繁華街や都心部の公園というのは、住宅街の公園を使っている人とまったく違った人が使うもの」
 ということであった。
 住宅街における公園というと、
「子供が遊ぶ」
 というのが基本ではないだろうか?
 だから、遊戯施設があったり、金網で仕切られたところで、球技ができるというような公園が、住宅街には多かったりする。ちょっとした、
「学校のグラウンドの小規模なところ」
 と言ったところであろうか?
 そして、同じところで、幼児をベビーカーに入れて散歩させるために利用しているというのも、大切な利用目的ということである。
「いくら金網があるといっても、球技は危ない」
 ということであるが、それも、
「時間帯をうまく分ける」
 ということで何とかなるといえるだろう。
 ベビーカーによる主婦による幼児の散歩に使う時間は、
「昼下がり」
 というのが一番いいのかも知れない。
 ただ、真夏というのは結構きついのだが、それ以外の時期というのは、家で家事を済ませた後に、公園に集まってきた主婦のたまり場としては、ちょうどいいであろう。
 球技をする子供たちは、まだ学校にいっている時間で、遊ぶとしても、夕方くらいからだろうから。それまでは、
「主婦と幼児の時間」
 ということで、自由に使えるというものだ。
 このように、
「時間をうまく使う」
 ということで、住宅街の公園というものは、実にうまく運営できるということになるだろう。
 都心部の公園というと、ほとんど、遊戯というものはない。もちろん、球技をするための金網などで仕切られた場所もない。
「昼休みに、お弁当を食べるところ」
 という印象が一番強いのかも知れないが、意外と朝の時間などで、ジョギングやさんぽをする人の姿も結構あるようだが、そんな人が、
「一体どこからきているのか?」
 ということがよく分からないのであった。
 ただ、都心部や繁華街の公園というと、
「誰も気にもしていない」
 と思っている人も結構いるようで、それこそ、
「毎日使っている」
 という人以外は、
「そこに公園がある」
 ということを知っている人というのでさえ、ほとんどいないのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「都心部というところは、住宅地にも、同じようにあるものでああっても、本当にいつもそこにあるということを意識しない」
 ということで、
「まるで石ころのようなものではないか?」
 というような感覚になるのであった。
 石ころというのは、
作品名:もろ刃の剣の犯罪 作家名:森本晃次