もろ刃の剣の犯罪
ということになると、自他ともに認める性格であったのだ。
もっとも、それは、まわりから見れば、とても長所だということではないようだが、本人は、
「長所だ」
と思っている。
それは、
「長所と短所が紙一重」
ということであり、
「そのことを、須藤自身が、一番よく分かっている」
ということからくるものだといえるであろう。
それを考えると、
「俺は直観で動く人間だ」
ということになる。
普通であれば、
「あまりいい傾向ではない」
といえるのだろうが、今までの仕事などにおいて、その性格が、
「功を奏している」
ということになり、いい方に向いているといってもいいだろう。
今まで、上司から認められ、他の人よりも早く主任になれたということからも、言えることであった。
ただ、
「今までが運がよかっただけ」
ということなのかも知れない。
「いい上司に恵まれた」
あるいは、
「いい方にサイコロの目が向いた」
というだけでのことであったとすれば、逆にいえば、
「選択がすべて逆であったとすれば、どうなっていたのか分からない」
といってもいいだろう。
そもそも、今の自分が、
「本当に最善だった」
といえるのかどうか、それも難しいところであり、
「足を踏み出す時、右足にすればいいのか、左足にすればいいのか?」
という問題も、
「何が、正解なのか、分かったものではない」
つまりは、
「それの正否を誰が決めるのか?」
ということであり。何が正なのか分かりもしないのだから、
「一歩間違えれば、すべてが間違いだった」
ということになるのである。
それを考えれば、
「人の寿命だって同じこと」
であり、
「明日死ぬことになる人が、その時に、反対の行動をしていれば、もっと長生きできていたのに」
ということが果たしていえるのだろうか?
もっと早く命を落としていたかも知れないわけであり、それこそ、
「神のみぞ知る」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、選択に対して、正否を問うのは、それこそ、人間として、おこがましいといえることではないだろうか?
交通事故に遭うのだって、
「赤信号で飛び出したことで、普通に走ってきた車に轢かれた」
ということになれば、
「ちゃんと信号を守らないから、こんなことになるんだ」
と言われるかも知れないが、
「飛び出さなければ、違う車が突っ込んでくる」
ということだってある。
もし、その時、飛び出さずに車に吹っ飛ばされれば、まず命はないだろう。
何しろ、普通の道を、安全運転で走っている車ではなく、歩道で待っている人に突っ込むのだ。それは、さぞや、切羽詰まってのことであろう。
もし、その時巻き沿いを食って即死していれば、
「運が悪かったんだ」
ということで、家族はどう思うのか?
「神も仏もないものだ」
と、この理不尽さを呪うかも知れない。
だが、
「選択を間違えたから」
ということには絶対にならない。
なぜなら、
「信号を守るのが当たり前」
ということで。
「神も仏もない」
と言いながら、その理不尽さを取り繕うかのようにあきらめるとすれば、
「運の悪さ」
というもので納得するしかないからであった。
須藤が、小説を読んだ中で、
「マンガも見てみよう」
と思ったものもあった。
映像作品は、以前は基本的に、小説が原作であるか、あるいは、脚本家のオリジナルか?
というものが多く、映像化作品となるものは、
「読んでから見るか? 見てから読むか?」
というキャッチフレーズがあるほどであったりした。
しかし、須藤とすれば、
「先に原作を読んでから、映像作品を見ると、映像作品に幻滅してしまう」
ということが多かった。
しかし、逆に、
「映像作品を見てから、現ザクを読むと、原作の方がいいのは間違いないが、映像作品が悪いかったという発想もない」
といえるのであった。
だから、映像作品になる作品を、最初に読んでしまっていれば、
「映像作品は、少し落ちる」
と覚悟して映像作品を見るか、あるいは、
「最初から見ないか」
のどちらかしかないだろう。
小説というのは、言葉から、その内容や情景を想像するものなので、どうしても、一度自分の中で想像したものができあがると、別の人が創造したものを、受け入れることができないといってもいいだろう。
だから、
「読んでから見ると、映像作品は落ちる」
と思う感覚を感じる人は少なくないだろうが、その理由に関しては。類似した寒河江を持つ人も多いかも知れないが、酷似はしないということになるのではないだろうか?
「似て非なるもの」
というのは、まさにこのことをいうのではないかと感じるのであった。
だが、最近は、ライトノベルが増えてきたせいもあってか、
「小説をマンガの原作ということで、さらに、そこから映像化作品とする」
というものが増えてきた。
そのおかげなのか、小説を読んでから、映像作品を見ても、そんなに違和感がなくなっていた。
それは、あくまでも、学生時代までのことで、ライトノベルの創成期といってもいいだろう。
あくまでも、
「好奇心」
ということで、ライトノベルというものを読んだだけであり、その小説を楽しいと思って読んだという記憶はなかった。
やはり、最初に昔の文学作品に触れたからかも知れない。
そもそも、須藤は、マンガというものが好きではなく、小学生の頃に少し読んだ作品はあったが、それは数作品だけで、それ以外は、見ようとも思わなかった。
しかし、マンガというものの中には、
「小説では表現できない」
というものもあったりした。
確かに小説というのは、想像力を掻き立てるものであるが、
「無限の想像力」
というものを求めたりすると、
「無限などありえない」
という思いからか、それとも、
「無限に近づく」
ということが、
「いかにエンターテイメント性を掻き立てるか?」
ということになり、これも、最初から覚悟のようなものを持たないと、無限に便りきってしまうと、その発想が妄想となってしまうに違いない。
須藤はこの犯罪を、以前に読んだライトノベルを思い出しながら発想をめぐらしていた。
ちょうど、その話を読んだのは、今から10年以上も前のことであり、すでにその内容を忘れかけていた。
それでも、印象的なところは、ところどころ覚えていて、
「そのおかげで、無限ではない発想というものを掻き立てることができるかも知れない」
と感じたのだ。
しょせんは、
「似て非なるもの」
ということで、それを考えると、
「もし、自分がその話を模倣して犯行に及べば」
と考えたのだ。
そもそも、その小説を思い出したのは、
「耽美主義的な、猟奇犯罪」
というものを、前面に醸し出していたからであった。
犯人は今回の犯罪と同じように、被害者を花で飾った。ただ、今回との違いは、同じ公園ではあったが、公園の中にある雑木林に括り付ける形で、さらに、そのまわりを、
「まるで生け花であるかのように、きれいな花で装飾している」
ということであった。
ただ、それは、