もろ刃の剣の犯罪
「探偵小説のファン」
ということで、推理をしてみたいという衝動はあったが、それ以上に、さすがに、死体発見の場面に立ち会い、自分が、第一発見者になるなどということは、思ってもみなかった。
「事故を目撃するということくらいは、一生のうちに一度くらいはあってもいいかも知れないが、死体の第一発見者になる」
などというのは、そんなにあることではない。
探偵小説に出てくる探偵」
というのは、
「何度も今までに殺人事件に遭遇している」
というのが多い。
なぜか、
「依頼を受けて捜査をするというよりも、たまたま居合わせたなどという事件の方が、実は興味をそそったりするのだ」
もし、
「依頼を受けた事件」
ということであっても、似たような事件を過去に解決したということを、使わずにストーリーを展開させることもあるが、逆に、それを逆手にとって、
「前の事件と酷似しているが、解決して見ると、まったく違う内容だった」
ということで、途中、探偵が、前の事件をなまじ覚えていたことで、捜査に錯誤を覚え、「違った方向にトラップしてしまった」
という小説の中でのストーリー性に組み込むことはえてしてあったりするであろう。
それだけ、
「探偵小説というのは、奇なるものだ」
といってもいいだろう。
ただ、今回の事件で、何といっても印象的なのは、
「死体を飾っている」
ということである。
一見すれば、
「猟奇殺人」
ということであり、だということになれば、犯人は、
「異常性癖の持ち主だ」
といってもいいだろう。
最近では、そのようなミステリー小説は珍しいが、実際に探偵小説と言われた時期、
「変格派」
と言われた小説には多かったりしたであろう。
今とは、時代背景がまったく違い、混沌とした世情であったことから、
「探偵小説」
として見る分には、それほど無理はなく、むしろ、
「興味深い犯罪」
ということになるだろうが、それを自分が発見するということになると、
「興味深い」
ということでは許されないという気がするのだ。
もちろん、自分が犯人でもなければ、かかわりがあるわけでもない。しかし、
「第一発見者になる」
ということは、一番最初に、事件に絡んでしまったということで、精神的に、落ち着いてもいられないだろう。
それを思うと、
「この事件の解決まで、自分がかかわることになるんだろうな」
という覚悟を持たなければいけないと考えたのだった。
警官と、腕章をつけた鑑識と思しき人たちが数人、そして、私服の刑事と思しき人が二人やってきていた。
警察もまだ早朝ということで、夜勤当番の人が初動捜査として出張ってきたということになるのだろう。
すぐに、制服警官によって、規制線が敷かれ、まだほとんど野次馬が来ることもなかったのは、この場所が、
「まわりから遮断された、中庭のような公園だ」
というところだからだろう。
しかし、それでも、数人は、規制線の向こうから、チラッとその状況を見ながら、ビルに入っていく。いかにも、
「自分たちはかかわりになりたくない」
という思いからだろう。
もちろん、好奇心がないということはないだろうが、
「これから仕事をしなければいけない」
ということと好奇心を天秤に架けると、
「かかわりになりたくない」
という思いの方が強いだろう。
それが、オフィス街というところの感覚であり、今まで通り過ぎた人の中には、会社の上司もいた。
気持ちは分かる気はしたが、
「それにしても、冷たいじゃないか?」
と思い、さらに、寒気が余計に襲ってくるのを感じるのであった。
刑事の表情を見ていると、いかにも、
「苦虫を噛み潰したかのような、何とも言えない表情をしていた」
そして、絶えず頭を傾げていることから、
「犯人の意図はどこにあるのだ?」
と思っていることだろう。
そして、その後、独り言のように、一人の刑事が、
「何もこんな耽美主義的なことしなくてもいいのに」
というと、その横でもう一人の刑事が、無言でうなずいているのであった。
「耽美主義?」
その時まで、須藤は、この言葉を探偵小説で見たことはあったが、自分が読んだことがある小説の中で、実際に、
「耽美的な犯罪」
というものはなかった。
「猟奇犯罪」
であったり、
「異常性癖」
というものはあったが、
「耽美主義が表に出る犯罪」
というのはなかった気がした。
須藤が探偵小説で好きだったのは、あくまでも、
「本格派探偵小説で。オーソドックスに、探偵が、犯人が作ったトリックを暴いていくというものが中心だったので、時代背景として、猟奇殺人を行う犯人が、その動機として、異常性癖というものが後ろでうごめいている」
というのが普通だったと思っている。
一度、
「耽美主義的な小説を読んだことがあったが、結局は、異常性癖の延長」
ということで、
「おもしろくない」
と感じさせられた。
それは、まだ読んだのが中学時代だったので、
「心理的な内容よりも、見た目の派手さであったり、インパクトがなければ、面白くない」
と感じたからであろう。
そんな探偵小説を読んでいると、一度どこかで、
「何か面白くないな」
と感じることになる。
これは、
「今までインパクトの強い小説をどんどん読んできたために、飽きが来たということで、一種の飽和状態になったからではないか」
と感じたのだ。
そんなに好きな食べ物でも、毎日のように食べさせられれば、いずれは飽きが来るというもので、特に、須藤の場合は、
「好きなものは、毎日でもいい」
という性格だったので、実際に子供の頃など、好きなものを毎日食べていたりしたものだった。
しかし、これが大人になってくると、
「舌が肥えてきた」
ということなのか、
「すぐに飽きてしまう」
ということになり、それまでの自分の性格というものが、変わってしまったのではないかと感じるようになるのであった。
しかし、それは、実は無理もないことで、特に、子供の頃から、
「好きなことを好きなようにしていた」
という人間であれば、それができなくなると、
「まるで、自分がどうにかなってしまったかのように感じる」
ということになるのだ。
それが、
「本当は成長というもので、喜ばしいことに違いない」
というものであるのに、
「できていたことができなくなった」
ということになると、どうしても、悪い方に考えてしまうという、
「ネガティブな発想」
になってくるのであった。
「これが逆であれば、ポジティブに考えられるのであろうか?」
と思ったが、どうもそんな気分にはならない気がした。
というのは、
「大人になってからネガティブに考えるようになったのは、育ってきた環境が問題なのではなく、生まれつきの性格から、こうなってしまった」
といってもいいだろう。
つまりは、
「どっちに転んでも、性格的な成長に変わりはない」
ということになるのだろう。
だから、飽和状態になるというのは、自分の性格だということに気づくまでには時間が掛かることであり、やっと最近になって、