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滅亡に追いやる夢

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「ひえいしている国民を放っておいて、外国にいい顔をする政府」
 一つだけでも、大きな問題なのに、まるで、
「三段跳び」
 のように、
「国民を苦しめる政府が何を言おうと、従うわけはない」
 ということである。
 そんな時代が、今の政府であり、
「誰がソーリになっても同じだ」
 ということで、
「じゃあ、政権交代させればいい」
 ということになるのだろうが、今度は、
「政権交代させて、国家を担う」
 という野党が、まったく見当たらないのだ。
 そうなると、
「誰がなっても同じだ」
 ということになり、国民一人一人が、
「日本の国はこれで終わりだ」
 と思うようになってきた今の時代こそ、
「パンデミックの本当の正体」
 といってもいいかも知れない。
「大っぴらには言えないが、そこに、何らかの企みがあるかも知れない」
 ということだ。
 ネットなどで、
「陰謀論」
 を唱えている人たちには、格好の話題ということであろう。
「これが夢だったらな」
 と思っている人も多いだろう。
「国家も大いなる頭痛に悩まされているということになるのだろうか?」
 と感じるのだった。

                 夢の共有

「見た夢を覚えている」
 というのは、
「本当は、夢というのは毎日見ていて、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
 ということを考えると、
「覚えている夢」
 というものには、何かの共通点があるということになるのではないか?
 そう考えてみると、
「過去に見た夢」
 を思い出そうと思ってみると、
「いつも同じ夢を見ていたような気がする」
 ということであった。
 いや、実際に、見ていたというかすかな夢の記憶の中で、
「この続きを見たい」
 と思うような楽しい夢を見たとして、
「夢の続きを見ることができない」
 と考えてしまい、結局、
「ちょうどいいところで目が覚めてしまう」
 ということになるということを意識してしまうのだった。
 つまり、夢というものは、
「夢だから、なんだってできる」
 と思ったとしても、
「結局は何もできない」
 ということになる。
 というのは。例えば。
「夢の中だから、空だって飛べるだろう」
 と思ったとして、
「これは夢だ」
 と感じた時に、空を飛ぼうとして身体を宙に放り込むかのような態度を取ったとしても、できることといえば、せめて、
「宙に浮く」
 というだけのことである。
 それこそ、
「空中という、まるで水の中に放り込まれた状態であがこうとしても、結局、自由が利かずに、宙に浮いているだけになってしまう」
 ということになるのであった。
 そもそも、夢を見ている最中に、
「これは夢だ」
 と、本当に感じることができるものか?
 ということである。
 夢を見ている時、実際に、
「なんでもできる」
 と思うのは。勝手な思い込みであり、
「傲慢な考え方だ」
 といってもいいかも知れない。
「歴代のソーリ」
 というのは、皆そんな、
「自分にとってだけの夢」
 ということであり、
「国民にとっての悪夢」
 を見せてきたということであろう。
 だから、
「夢というのは、表裏が薄い状態で、一歩間違えると、自分で悪夢に簡単にしてしまうことになる」
 といってもいいだろう。
 毎日見ている夢というのは、
「皆が同じような夢を見ている」
 と考えることもある。
 というのが、最近考えるようになった、
「夢の共有」
 というものである。
 見ている夢が、
「自分だけのものだ」
 と考えるから、
「夢を見ていても、それは、覚えている夢と覚えていない夢の二つがある」
 ということになる。
 そして、夢というものが、
「夢の中であれば、なんだってできる」
 と考えているのとはまったく正反対で、実際には、
「夢を見ることで、自分を束縛し、呪縛を感じさせるものになるのではないだろうか?」
 と感じさせるのではないだろうか?
「自分を束縛する」
 というのは、
「夢というものに、あまりにも、誇大妄想を持っているからではないか?」
 ということではないだろうか。
「夢を見ている間は、時系列も関係なく、自分が感じたとおりに動く」
 ということで、
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
 ということであるわけで、実際には、
「普段表に出さずに、そっとしまっておいた感情が、夢となって現れる」
 ということであれば、
「いくら夢とはいえ、何でもできるという感覚は、自分に対しての言い訳に思えて仕方がない」
 といえるのではないだろうか。
 もし、夢の中で、
「空が飛べた」
 と考えるのであれば、それは、夢というものが、
「願望」
 というものが、形を変えた、
「妄想」
 というものになったからではないかといえるだろう。
 つまり、
「願望を妄想にする」
 という感覚は、
「潜在意識の中にはない」
 ということになるだろう。
「妄想を願望にする」
 というのが、
「夢の正体」
 ということであれば、
「もう少し変わった形の夢が見れる」
 というものだ。
 ただ、今度は願望というものが、
「現実世界においての妄想だ」
 ということになれば、
「寝ている間に見るものではない」
 ということになるであろう。
 ただ、その場合は、
「実現可能だ」
 ということを意識できていないと、
「起きていて見る夢」
 というものではない。
 それだけ、起きている時に感じている意識というのは、
「夢を見せる」
 という、
「潜在意識」
 というものとは違って、
「寝てみる夢」
 という方が、
「平和なのではないか?」
 と考えると、
「眠っている間に見た夢を、目が覚めるにしたがって忘れていく」
 というのは、無理もないことになるであろう。
 だから、
「眠っている間に見る夢」
 というのは、起きている時に、
「想定する意識」
 というものの中に、あってはならないということで、忘れていくのではないだろうか?
 そんな中で考えることとして、
「夢の共有」
 というものであった。
 これは、
「他の人と夢を共有している」
 ということで、子供の頃には、
「誰かの夢の中に、自分が入り込んでいるのではないか?」
 と思ってみたり、逆に、
「俺の夢の中に出てくる人は、他の夢からきている人ではないか?」
 と思ったりした。
 というのは、
「夢の中に出てくる登場人物の印象が、あまりにも薄い」
 と感じるからだ。
 中には、
「目が覚めるにしたがって、忘れてしまった」
 という人がほとんどだったからだ。
「あれは、子供の頃の友達だったはずなんだが」
 ということで、夢の中に誰かが出てきたという意識はあるのだが、
「それが誰だったのか?」
 ということをすっかり忘れてしまっているのだ。
 確かに、夢を見ている時には、
「ああ、あれは、友達の○○君だ」
 ということは分かっていたはずだ。
 分かっているからこそ、
「目が覚める時に忘れないようにしないといけない」
 という感覚はなかったのだ。
 今川は、仕事を始めるようになってから、気分転換に、
「何か趣味を持ちたい」
 ということで、いろいろ考えていたが、結局最後には、
作品名:滅亡に追いやる夢 作家名:森本晃次