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滅亡に追いやる夢

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「小説を書きたい」
 と思うようになったのだ。
 その、
「小説を書く」
 というのは、そもそも、子供の頃に、
「モノを作るということが大好きだ」
 というところからきていた。
 小学生の頃は、木工細工に興味を持ち、よく学校から帰ってきて、日が暮れるくらいまで、家の奥の倉庫のあたりで、木工細工をして遊んでいたものだった。
 しかし、実際に満足のいくものが作れたことは一度もなかった。
 今から思えば、
「だから、続いたのかも知れないな」
 と思った。
 というのも、
「もし、満足のいくものができたとすれば、そこで作ることに満足して、すぐに飽きてしまう」
 ということを感じるからであった。
 まさか、
「継続したいという思いから。わざとうまく作れないように、自分で意識的な工作をしていた」
 などということはないだろう。
「そんな器用なことは、大人にならないとできない」
 と思っていて、最初から、
「子供の時の方が、自由な発想と、動くことができる」
 と思っていたのかも知れない。
 確かに、今から思えば、
「早く大人になりたい」
 という意識と、
「大人になんかなりたくない」
 という思いとが、子供の頃には交錯していたような気がする。
 しかも、それぞれの思いを、同時期に感じたことはない。
 どちらかを感じている時は片方は、裏に隠れている。
 それはまるで、
「どんでん返し」
 の舞台のようではないだろうか?
 これは大人になってから感じるようになったことであるが、
「自分の中には、正反対の感覚が宿っていて、それは、同じ時に表に出てくるわけではない」
 と感じたのだ。
 それは、
「全体を支配している感覚自体が、自分の中の多重人格を形成していて、決して、頭の中で同居できない」
 ということから、
「片方が夢で、片方が現実」
 と考えるようになった。
 だから、
「現実を、他人と共有できるのであれば、夢というものも、他人と共有できるのではないか?」
 と考えると、
「現実の世界」
 と似たようなものが、
「夢の世界」
 として広がっていて、それがまるで、
「並行世界」
 といえるようなもので、いわゆる、
「パラレルワールドの発想だ」
 といえるのではないだろうか?
「現実の世界にも存在するというのであれば、夢の世界でも存在する」
 と考えると、
「ジキルとハイド」
 というのは、
「どちらかが現実で、どちらかが夢」
 ということになるだろう。
 一見、
「ジキル博士が現実で。ハイド氏が夢だ」
 ということになれば、
「ハイド氏が死んでしまえば、ジキル博士も生きてはいないだろう」
 ということになる。
 確かに、
「一つの肉体に二つの精神が宿った」
 ということで、
「ハイド氏を殺すということは、ジキル博士も生きていない」
 と考えるのは、
「共有している肉体は、精神で分離することはできない」
 という発想からなのであろうか。
 単純に考えれば、
「ハイド氏を封印してしまえば、ジキル博士が死ぬことはない」
 といえるのだろうが、なぜ、その発想に至らなかったのだろうか?
「多重人格」
 というものと同じ発想なのかどうかであるが、
「ドッペルゲンガー」
 というものがある。
 これは、
「自分と同じ人間が、同一次元の同一時間に存在している」
 というものである。
 もし、
「ジキルとハイド」
 のような、
「二重人格である」
 ということになれば、
「同じ次元の同じ時間に、存在することはありえない」
 といえるだろう。
 そして、ドッペルゲンガーというのは、
「もし、見ると近い将来死んでしまう」
 と言われている。
 これには、諸説あるのだが、その中に、
「タイムパラドックス」
 というものに抵触しているからだ。
 と言われている。
 つまりは、
「過去に行って、自分が生まれるという過去を変えてしまった場合、生まれてこなくなる自分が、タイムマシンで過去に行くことはできない」
 という基本から、
「だったら、過去は変わらないわけで。自分が生まれてきてしまう」
 という考え方になるのだ。
 だが、このタイムパラドックスというものは、あくまでも、
「タイムスリップ」
 というものに起こることであり、同じ、
「タイムトラベル」
 という発想の中には、
「タイムリープ」
 というものがあるという。
 この
「タイムリープ」
 というのは、
「過去のどの瞬間かに戻って。そこからやり直したい」
 という発想から出てきたものだった。
 それは、あくまでも、
「自分の歴史をやり直す」
 ということで、
「もう一人の自分」
 というものを、
「同一次元、同一時間に作る」
 ということではない。
「意識だけが過去に行き、過去の自分に乗り移る」
 ということである。
 ただ、その場合、未来においての自分の肉体が抜け殻になってしまうわけで、普通に考えれば、
「原因不明の死を迎えた」
 ということになるだろう。
 未来の自分(つまりは、タイムリープする前の自分)というのは死んだことになるということだ。
 となると、過去に戻った自分が、いくら人生をやり直したとしても、結局は、
「タイムリープしたその瞬間に、自分が死んでしまう」
 という未来が待っているという発想を、誰もしないのだろうか?
 確かに、
「タイムトラベルでの最大の懸念点」
 としての、
「タイムパラドックスの解決」
 という意味で、
「タイムリープ」
 という考え方は、画期的だといってもいい。
 しかし、タイムリープした先の未来を、変えてはいけないのだとすれば、理屈で考えると、
「自分の寿命はタイムリープしてしまうと、その瞬間で終わってしまう」
 といえるのではないだろうか?
 そこで、もう一つの考え方が生まれてきたのかも知れない。
 それは、
「タイムループ」
 という考え方で、これは
「タイムリープ」
 という考え方に近いといってもいいのかもお知れないが、こちらは、
「タイムリープと同じように過去の自分に、意識だけが乗り移る」
 ということであるが、その場合、
「未来がうまくいかなければ、何度かもう一度繰り返すことができる」
 というものである。
 もちろん、その回数には限りというものがあるのだが、かなり、
「柔軟な考え方」
 といってもいいだろう。
 しかし、この、
「タイムループ」
 という考え方も、実際には、あまり感心できることではない。
 なぜかというと、
「未来に起こることの何が正解なのか分からない」
 ということだからである。
 過去の人で、何かを企てた時、
「見た目失敗した」
 という状態になった時。言い訳がましいと言えばいいのか、
「何が正解だったのかというのは、歴史が答えを出してくれる」
 という言い方をする。
 恰好のいい表現であるが、実際には、
「言い訳でしかない」
 ということだ。
「だから、もし、繰り返すことが5回までできる」
 ということになれば、
「一度繰り返してみて、最初より、1回目の繰り返しが、うまくいった」
 ということになった時、どう考えるであろうか?
「これでよかった」
 といって、
「納得するか」
 あるいは、
作品名:滅亡に追いやる夢 作家名:森本晃次