滅亡に追いやる夢
「自然災害に見せかけた人災」
というものが起こり、その対応ということになると、まったくといっていいほど、機能していないということになる。
そのことが、直近では、
「世界的なパンデミック」
というものが起こった時の、政府の対応を考えてみれば、分かるというものだ。
世界的なパンデミック
問題が発生してから、四年以上が経過しているが、その問題は、今も尾を引いているにも関わらず、
「蔓延が落ち着いてきた」
ということで、政府はさっさと、その伝染病レベルを引き下げ、
「インフルエンザ並み」
という対応をすることに切り替えたのだった。
それまでは、
「医療費や、ワクチン代は政府持ち」
ということであったが、レベルを引き上げたことで、
「医療費は、保険の範囲内」
ということにしてしまったのだった。
だから、世間の人も、
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」
とばかりに、
「もう、世界的なパンデミックは収まった」
ということよりも、
「なくなった」
という方に意識が移行したのだ。
それは、
「それまで、どれだけ神経質になっていたか?」
ということの現れであり、
「それはそれでよかった」
といえるのだろうが、その反動が大きいと、
「せっかく、それまで、国民全員で、危機に当たる」
という体制だったものが、一気に崩壊し、
「これまで我慢してきたことを、どんどんやって、これまでのストレスを発散させるんだ」
ということになるだろう。
それは、それで一つのエネルギーとして、
「復興」
という意味では大切なことであろう。
しかし、それが、
「油断」
に繋がらないとも限らない。
しかも、発散を考えている連中は、
「そんなに怯えてばかりでは、復興もできない」
ということで、特に、販売やサービス業の人たちにとっては、まずは、
「復興」
というものが大切になってくる。
「経済を回さないと。世の中が元に戻らない」
ということで、
「確かに、すべてを忘れたかのように、昔に戻るというのは危険であるが、対策は取ったうえであれば問題ない」
といえるだろう。
しかも、その体制というものも。
「最低限であれば、それでいい」
ということだ。
特に、
「一度経験すると、次には慌てることはない」
という自信のようなものもあるということで、ここでも、
「油断と、経験」
というもののバランスが大切だということになるであろう。
そもそも、この、
「世界的なパンデミック」
というのは、
「某国の某都市」
で発生したものが、
「あっという間に世界中に蔓延した」
ということだったのだが、
「その原因究明もさることながら、起こってしまったことは仕方がないとして、まずは、いかに蔓延させないか?」
ということが問題だったのだ。
それも、
「経済や市民生活にどれだけ影響を与えず、蔓延を防止するか?」
というのが、政府の役目だといえるのではないだろうか?
今回のパンデミックに対しては、
「世界の超大国」
でも、なかなか足踏みが揃うわけではなかった。
それだけ、
「蔓延のスピードが速かった」
ということと、発生させた某国というのが、
「原因究明」
というところでの壁になっていたからであった。
とにかく、
「伝染病を抑えるには、水際対策が重要」
ということは分かっているが、
「どこまでできるか?」
ということが問題である。
特に日本のように、
「有事というものは存在しない」
という基本で作られた憲法では、
「国民の自由を一時的に制限する」
ということはできなかったのだ。
いわゆる、大日本帝国憲法におけるところの、
「戒厳令」
というものであった。
これは、
「クーデター、戦時体制、自然災害などが起こり、都市機能が崩壊してしまった時、その治安を維持するために、臨時政府を作り、市民の自由を、一部制限することを行うために、臨時政府に、全権を委任する」
というものであった。
ただ、日本は確かに、憲法九条というものがあり、
「戦争放棄」
が原則で、しかも、
「基本的人権の保障」
ということを謳っている以上、
「国民の自由を、一部とはいえ、制限できない」
ということになるのだ。
確かに。日本には、
「クーデター」
「戦時」
というものは存在しないが、
「自然災害」
というものは結構ある。
日本が、
「大日本帝国」
と呼ばれていた時代、
「3回、戒厳令が施行された」
ということである。
最初は、明治の大戦争として有名な、
「日露戦争終結」
の時のことであった。
「日露戦争」
というと、
「世界の大国であるロシアと、日清戦争でアジアの大国である清国に勝利したとはいえ、まだまだ弱小だった、明治日本との闘い」
であった。
ほとんどのまわりの国は、
「日本に勝ち目はない」
と思っていただろうが、
「旅順港閉塞作戦」
から、
「旅順攻略」
「奉天会戦」
という陸軍の成果。
そして、
「バルチック艦隊に対して、日本海海戦での勝利」
ということでの海軍の勝利。
そこには、
「日英同盟」
という外交面での裏工作が功を奏した。
ということで、
「政府と軍がタッグを組むことでつかんだ勝利」
といえるだろう。
しかし、その勝利というのも、
「薄氷を踏む」
ということで、その戦場はあくまでも、
「朝鮮半島と満州」
ということで、
「ロシア本国に攻め入っての敵地占領」
ということではない。
つまりは、
「戦闘で決定的な勝利をつかんだところで、何とか、講和条約で、最大限に有利な条件を引き出す」
という形での勝利しかなかったのだ。
逆にいえば、
「その方法でしか、勝利はありえない」
ということであり、そういう意味では、
「戦争は成功を収めた」
といってもいいだろう。
だから、講和条約において、
「お互いにどれだけ譲歩できるか」
ということになるのだが、日本もロシアもお互いに、
「これ以上の戦闘は不可能」
ということであった。
ロシアの方も、
「国内で、革命の機運が高まってきて、対外戦争どころではない」
といえるからだった。
結局、
「戦争賠償金が取れない」
ということで、妥協することになったのだが、納得がいかないのは、日本国民だったのだ。
確かに、
「政府の苦悩を知らない」
ということではあったが、国民感情としては、
「軍人の犠牲が想像以上にけた違いだった」
ということ、さらに、
「軍事費がべらぼうに固く、国家予算を上回るだけの戦費をはたいていて、国民がその血税を払っている」
ということから考えれば、
「戦争賠償金が得られない」
ということは、正直、
「やりきれない」
と思うのも当たり前だろう。
だから、国民が暴徒と化し、
「日比谷公会堂を焼き討ちにする」
という暴挙を働いたことで、治安を維持できないと判断した政府が、
「戒厳令」
を出したということだ。
規模がどれほどのものだったのかということもあるだろうが、一種の、
「クーデターのようなもの」
といってもいいだろう。