滅亡に追いやる夢
「夢の中から湧き上がるようなもの」
と考えると、余計に、
「その痛みから逃れられない」
と感じるのであった。
しかも、
「この頭痛薬は、眠気が来る」
と言われている頭痛薬なのに、そもそもの痛みが解消してこないわけなので、
「眠気が来る」
ということもなかったのだ。
それどころか、
「錯覚をもたらす」
ということからか、余計なことを考えてしまい、
「余計なことほど、辛いものはない」
と感じさせるのだ。
本当であれば、
「頭痛薬を飲んだことで、身体の痛みがマヒしてきて、襲ってくる睡魔に便乗する形で、眠ってしまうと、目を覚ました時には、頭痛がしていたなどということを忘れるくらいに、楽になっているはずだ」
ということになっているであろう。
ただ、
「頭痛がしてくるということは、睡眠時間が中途半端だ」
ということになるということを、意識はしていた。
今回の頭痛には、吐き気と、呼吸困難を伴ったが、それが、
「夢の中で見た、湿気が原因ではないか?」
と感じたことに間違いはないだろう。
今回の夢の中で、一番印象に残っているのは、
「呼吸困難」
だった。
「呼吸困難を感じさせるために、湿気というものを、夢の中で演出したのではないか?」
というくらいに感じさせられたからであった。
三日前の夢で見た時に、目の前にいた女が、交通事故に遭って苦しんでいる時に感じた印象が一番強かったのが、
「呼吸困難」
ということだったのだろう。
これは、
「逆から感じた」
ということであり、しかもその時、
「苦しい」
と感じたその感覚は、
「女を見ていて感じたこと」
であったが、それ以上に、
「女が震えている感覚が、どこから来るのか?」
と感じさせられたということを思い出させるのであった。
「今までに、交通事故の場面など、見たことがあったかな?」
と感じたのだが、実際にどうだったのだろうか?
自分では意識したわけではなかったが、
「夢に出てきた以上、記憶の中にあって、しかも、印象深く残っていたからだ」
ということになるのであろうが、夢に出てきたとしても、
「記憶から放たれた」
という感覚があったわけではなかったのだ。
その時に起こった、
「頭痛」
というのは、あくまでも、
「痛みの象徴」
とでも、言えることではないだろうか?
ただ、
「息苦しさ」
というものを、最初に感じたということは、
「その痛みというものがどこから来たものなのか?」
と考えさせられる。
「子供の頃に、よくけがをした」
という記憶のある今川は、
「特に、骨を折ったりした時、その痛みから、息ができないくらいに苦しい」
という感覚があったのだ。
さらにそれを思い出すと、
「必死になって息をしようとするからなのか、変な臭いばかりを感じる気がする」
と感じるのだ。
その臭いというのが、
「湿気を感じた時の、あの石ころの臭い」
というものであった。
石ころの臭いを嗅いだ時、
「普通に雨が降る」
と感じたその時は、石ころの臭いだけしかしないのだが、
それ以外で、
「身体の痛み」
のようなものを感じた時、石ころの臭いだけではない、別の臭いも一緒に感じるのであった。
その臭いは、
「汗が滲んだような臭い」
というものであった。
身体から滲みだしてくる臭いというものは、気持ち悪さだけではなく、呼吸困難を招く気がする。
それだけ、痛みに感覚がマヒしたことで、その痛みに耐えられない自分が、
「今度は、どこまで我慢すればいいのか?」
と考えたことで、痛みを頭痛という形で表現しているというのを、
「夢が証明している」
と思えてくるのであった。
「夢の中で、色も痛みも臭いも感じない」
という、
「五感がマヒしているのが夢の中というものだ」
と信じて疑わなかった感覚があったにも関わらず、最近では、
「夢には、五感が確かに存在する」
と考えるようになったのだが、それを、
「大人になったから感じるようになった」
といってもいいのだろうか。
そんな夢というものを考えると、
「何か追い詰められている」
という感覚を覚えた。
「追い詰められるということが、それまでにはまったくなかった感覚だ」
と考えると、
「これも、大人になったから感じることだ」
といえるのではないだろうか?
つまりは、
「夢というのは、大人になると、別のものに変わる」
といってもいいのだろうか?
いや、
「子供の頃というは別のもので。大人になったから夢というものになったのではないだろうか?」
とも、考えられる気がした。
「たぶん、子供の頃に見た夢の多くは、大人になった自分を想像してみるのではないか?」
と考えられたが、覚えている夢が、
「大人になった夢」
ということであり、
「子供の頃に同じ時期に見た夢」
というのは、表に出てくることはないということで、結局、
「記憶の奥に格納された」
いや、
「封印された」
というものになるのではないだろうか?
と考えられるのであった。
「子供の頃というのは、まわりの光景も、社会情景も変わりはないような気がする」
と思っている。
確かに、子供の頃に比べると、パソコンであったり、携帯電話などの普及というのが、どんどん進んで、
「まったく違った文化になった」
といってもいいのだろうが、
「社会体制のようなものは、それほど変わっていない」
と感じるのは、
「子供の頃に見て、封印された夢」
というものが、
「子供の頃から見て、さらに、昔のことだったのではないか?」
と思えるものであり、それが、実際には、
「見たことがあるわけではないのに、なぜか、記憶にある」
という、いわゆる、
「デジャブ」
というものになるのではないだろうか?
最近、少し不眠症気味になっていることに気づいたのだが、その原因が、なかなか分からないでいた。しかし、その原因が、
「中途半端な睡眠だ」
と分かってくると、
「睡眠時間を調整することで、何とかなるのではないか?」
と思うようになったが、果たしてそうだろうか?
実際に、眠気が襲ってくると、
「まだ寝る時間ではない」
と思いながらも、眠ってしまう。
それは、
「結局、眠ってはいけない」
と思っている時、自分を精神的に追い詰めてしまうことになり、自己防衛の意識が走るのか、いつの間にか眠ってしまうのである。
「堂々巡りを繰り返してしまう」
と思うのも、
「規則正しい生活をしないといけない」
と思うことで、
「自分にプレッシャーをかけてしまうからだ」
ということになるからであろう。
そうなると、
「無理に眠ろう」
と思わないようにしよう。
と思った。
「眠れない時に、無理にでも寝ようとすると、却って苦しみを、自分で自分に与えることになり、気が付けば、時間だけが過ぎていて、結局眠れないままという状態が続くことで、不眠症が治らない」
ということになってしまうのだ。