滅亡に追いやる夢
「何かが潰れるような、鈍い音がした」
ということは意識の中にあった。
ただ。その音が、
「どこかに反射して聞こえた」
と感じたので、
「必要以上の大きさだった」
という感覚は否めない。
シーンは、
「小学生時代」
だったということで、光景は、今から20年くらい前ということであった。
ただ、その頃と今とでは、そんなに風景は変わっているわけではない。それだけに、
「小学生の頃が小さかったので、まわりが、余計に大きく、そして広く感じる」
という感覚から、
「風景自体がまったく違う光景だ」
と思うのだった。
「時系列がない」
という感覚だが、
「広さが違っている」
というこの感覚は、
「今までの自分とは意識的に違っている」
という思いに至ったのだ。
「空気の濃さ」
から、息苦しさを感じていると、背中の汗が自然と浮かび上がってくるのを感じると、
「生暖かったものが、今度は寒気に感じられ、それが、石の臭いを思わせる」
という感覚になってきたのだった。
と、その時に目の前に見えているその光景が、
「次第に、目線が変わってくるのを感じさせられた」
といってもいいだろう。
最初は、
「音がして、衝動的にそっちの方を見ることになったのだが、見た瞬間、身体にしびれのようなものが走り、身体を動かせない」
という状態になっていることに気が付いた。
そして、こちらを見ている一人の女性がいたのだが、その女性は、こちらを見ながら、ブルブル震えていた。
「そっか、僕は、ここで車に轢かれたんだ」
と感じた。
痛みはなかったが、
「夢を見ている」
という感覚ではなく、
「痛すぎて、感覚がマヒしているのではないか?」
と感じたのだ。
「目の前で震えているその女性は、声を挙げようとしているのだが、挙げることができないでいた」
と言ってもいいだろう。
「そんな時、自分だったら、そうするだろう?」
と、考えた。
身体の痛みとは別に、何かを考えるということはできるようで、必死に考えようとしている。
これは逆に、
「他のことを考えている方が、痛みを忘れられていいからなのかも知れない」
と感じたからではないだろうか?
もうその時には、
「これは夢だ」
ということは自分の中で分かっている。
目の前の女性が、自分を痛々し気に見ているその視線から逃れたい」
と必死に感じるようになったが、まるで、
「ヘビに睨まれたカエル」
であるかのごとく、その視線を切ることはできなかった。
それは、
「足が攣った時」
という感覚に似ていた。
「痛いという感覚を、相手に知られたくない」
という思いが働くからであった。
「どれだけの痛みがあるのかということを、自覚できない方が、本当の痛みを感じている時ではないか?」
と感じた。
「その痛みが強ければ強いほど、感覚がマヒしてきて、その感覚のマヒを完全に分かるようになると、これが夢であるということを意識することになる」
と感じるのであった。
その時に、その域に達したということであろうか、
「視線が、すぐに、事故現場を見ている」
という状況に変わった。
その時、それまで感じていた痛みは消え、マヒした感覚も、
「錯覚ではないか?」
と感じた。
その時に目の前で交通事故に遭って苦しんでいるその人を見た時、
「これが一番ショッキングなことだ」
と思ったのだ。
それは、目の前で苦しんでいるのが、女性であり、その女性が、自分の視線に気づいた時、
「最初に感じた彼女の怯えと震え」
というものであり、
「その痛みというものが、感じられない」
ということで、
「これは夢だ」
と感じることになったのだ。
これを錯覚だ」
といっていいものだろうか?
錯覚というのは、
「同じ夢の中で、自分と相手のそれぞれの視線を、感じることではないか?」
と思うのであった。
頭痛
それが、自分の中で感じた、
「夢という錯覚」
であったが、その夢は、
「以前にも見たことがあるような」
という感覚に繋がってきた。
これは、
「デジャブ」
と言われる現象で、誰にでも起こることのように思われるが、これが、
「夢を見る」
あるいは、
「夢の内容を覚えているということと同じではないか?」
と考えると、
「デジャブというのは、結構な頻度で起こっているはずではないか?」
と思うのだ。
ただこれも、
「デジャブを本当は感じたはずなのに、実際には、一瞬にして忘れてしまうので、記憶に残っていないだけ」
ということになるのかも知れない。
デジャブというものは、
「科学では証明されていない」
と言われるもので、その正体は分かっていない。
ただ、ある本を読んだ時、
「デジャブというものは、辻褄合わせだ」
というようなことを書いていた。
「どうして、その言葉を覚えているのか?」
というと、
「その内容については、理解したのか自分でも分かっていないが、辻褄合わせという感覚に、意識が反応したということで、自分が考えていることと同じ感覚だった」
ということが言えるからではないかと思ったからだった。
「夢というものと、デジャブというものは、どこかでつながっているのではないだろうか?」
と感じるのは、今川だけではないのではないだろうか?
「デジャブと夢」
というものの共通点として考えられるものに、
「時系列」
というものがあるような気がする。
それは、
「共通点というよりも、それぞれを解き明かすという意味で、それぞれを考えた時、無意識に探すことによって見つかるものがあるとすれば、それが、時系列ではないか?」
ということだと感じるのであった。
時系列というものを、
「一本の線」
と考えれば、
「デジャブと夢というものが、共通点である」
というところに行きつくのかも知れない。
考えてみれば、
「どちらも当たり前のことだ」
と考えられることであり、
「デジャブと夢が一本の線だ」
と考えたとすれば、それが、
「夢と現実の世界を結ぶ線」
ともいえるだろう。
「デジャブというものが、別の当たり前と思える発想から生まれてきたものだと考えれば、それは、何かの副産物ではないか?」
とも考えられ、その副産物というものが、
「実は夢なのではないか?」
と考えると、
「夢というものは、本当は見ない方がいいのではないか?」
と感じられてくる。
しかし、
「夢というものは、見たいと思ってみるものではない」
ということで、
「意識の及ぶ範囲ではない」
と考えると、その曖昧さというものも、分かっているということになるのではないだろうか?
三日前に見たというこの夢も、
「目が覚めるにしたがって忘れていっている」
と感じたが、その時に、頭痛がしてくるということも一緒に感じたのであった。
「目が覚めるという時と、頭痛とは、切っても切り離せない関係」
というのを感じたことがあった。
夢が絡んでいる時の頭痛というのは、
「頭痛、鎮痛薬を服用しても、簡単に治らない」
と感じたのであった。
その痛みが、