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滅亡に追いやる夢

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「夢で見たから」
 というわけではなく現実的に思い出すからであり、ただ、それを、
「夢の中でのこと」
 をいう錯覚を覚えるからではないか?
 と感じさせるのであった。
 最近夢に見た中で、一番印象に残っているのは、三日くらい前に見た夢だった。
「三日くらい前」
 という曖昧な意識は、
「ある時点くらいから、夢に対して曖昧になってしまい、いつ見た夢なのか、どんな夢を見たのか?」
 というようなことを覚えていないということが多かったりする。
 夢の記憶というのは、それだけどんどん曖昧になってくるというもので、曖昧になればなるほど、その意識というのが、
「末広がりのようになってくる」
 というものだった。
「実際に、その範囲が広がれば、意識や記憶が曖昧になってくる」
 ということで、
「広くて薄い」
 逆に、
「狭くて濃い」
 という夢もあるのではないか?
 と考えたが、今まで見た夢で、
「狭くて濃い」
 という夢はなかったような気がする。
 ということは、
「夢の世界は、広くて薄い」
 というのが当たり前であり、
「狭くて濃い」
 というのは、現実でしかありえないということであろう。
 逆にいえば、現実世界でも、
「広くて狭い」
 という感覚があったとすれば、それは、
「現実世界という、起きている間に見る」
 という
「うつつの夢」
 というものなのかも知れない。
 その三日前に見た夢というのは、自分が小学生だった頃の夢であった。
 今まで見た夢の中には、
「目が覚めてから思い出そうとしても、覚えていない」
 という夢の中に、
「小学生の頃の夢だったのだが、その夢を見せたであろう潜在意識とは違ったものが写っていたから、忘れてしまったのではないか?」
 と感じることがあった。
 というのは、
「見た夢というのは、本当は最近のことだったはずなのに、夢の中にいる自分が小学生だった」
 というのは、
「小学生の頃に、似たような経験をした」
 ということなのか、それとも、
「最近起こったことということで、意識したくないから、過去のこととして感じたのだろうか?」
 と考えたが、違う発想も出てきた。
 というのは、
「最近のことだけに、意識として感じていたことを、記憶という場所に移そうとして考えた時、一度夢という形で、無意識にフラッシュバックさせるという、ワンクッション置いたということが必要ではないか?」
 と考えた。
 実際には、
「意識の中から、記憶として格納しておきたいものは、すべて、夢の世界として一度意識させる必要がある」
 ということで、逆に言えば、
「覚えている、覚えていないは別にして、記憶に格納されていることは、そのすべてが、一度は夢として、潜在意識が表現したものなのではないか?」
 ということであった。
 だから、
「夢と記憶というのは、切っても切り離せない関係だ」
 といってもしかるべきだと思っているのであった。
「三日前に見た夢」
 というのも、
「記憶の格納」
 というものに絡んだものであり、
「なぜ小学生時代のことだったのか?」
 ということを考えると、自分でも、正直分からなかった。
「夢というのは潜在意識が見せるもの」
 ということで解釈すれば、
「それも当たり前のこと」
 と思ってしまるべきだといえるだろう。
 今回見た夢というのは、
「交通事故」
 の夢であった。
 現場を直接見たという感覚ではない。
「もし、直接見た」
 ということをいくら夢の中で見たということであっても、そのショッキングさというものから、
「思い出したくもない」
 と感じることだろう。
 しかし、その時の夢を思い出していく中で、
「その光景が生々しいものだ」
 という意識はなかった。
 そう思えば、
「夢を見ることを途中で辞めるはずだ」
 と思いからだろう。
「目が覚めるにしたがって忘れていく夢」
 というのは、
「それほど印象深いものではない夢」
 というのがほとんどだと思った。
 というのは、
「覚えている夢は、ショッキングなシーンを思い出せるか?」
 あるいは、
「自分の意識の中で怖い」
 と思っている夢の、
「どちらかではないか?」
 と感じることであった。
 夢の中の、
「その日」
 は雨が降っていた。
 夢であるにも関わらず、湿気を帯びた臭いに、
「石の臭いが混じっている」
 と感じたからだった。
「ただ、まだ雨が降ってくる気配はない」
 となぜか感じていた。
 明らかに雨の気配は感じるのにである。
 そんな日は、
「身体のだるさからの、錯覚なのかも知れない」
 と、最近は感じる。
 身体のだるさは、
「呼吸困難」
 というものを誘発するようで、それが、
「空気の濃さ」
 というものを感じさせるのであった。
「空気の濃さ」
 というものが、
「意識の中の曖昧さ」
 というものと連結し、
「そういえば、最近覚えている夢の大半が、雨が降っているシーンだったのではないか?」
 と感じていることに気が付いたのだった。
 夢を見た時に感じるものとして、
「一度、夢として見たものは、もう二度と、夢に出てくることはない」
 ということであった。
 それが、
「記憶」
 というものを格納している場所は、
「夢から入ることはできるが、格納場所から、夢に戻るということはできない」
 ということであった。
 その日の夢も、
「もう二度と思い出すことはない」
 と思ったその理由として、
「最後の部分を覚えているわけではない」
 と感じたからだ。
 今までに見た夢のほとんどは、
「見ているのが夢だ」
 ということを、自分では意識をしている状態なので、目が覚め始める時も、意識の中にあるというもので、そのきっかけを与えてくれるのが、
「やはり、ショッキングなことが、意識として残ることだ」
 ということであった。
 つまり、
「夢から記憶への架け橋となるのは、ショッキングなことを、夢を見たということを意識させる」
 というところからきているのではないだろうか?
「記憶と意識」
 これを、
「夢と現実」
 という言葉で簡単に片づけてはいけないのだろうが、
「夢も現実も、その結界において、一度通り越してしまうと、格納された記憶から出てくるには、夢で見たショッキングなことと同じものがなければ、出てくることはない」
 ということになるのだろう。
 そして、その出てきたものが、
「意識としては、ショッキングなことかも知れないが、現実世界の出来事としては、日常茶飯事である」
 と感じられるものが多いことで、
「格納された記憶が、夢となって現れる」
 ということになると感じるのであった。
「事実は小説よりも奇なり」
 という言葉があるが、
「現実は夢よりも奇なり」
 ということであり、もっと言えば、
「夢は現実よりも奇なり」
 といえる時もあるだろう。
 つまりは、
「夢が現実になったり、現実が夢になったり」
 というものは、
「意識と記憶との結界というものから出てくるものではないか?」
 と感じるのであった。
 今回の夢で見た
「交通事故」
 という夢は、どこからだったのだろうか?
「ガチャン」
 という音と、
作品名:滅亡に追いやる夢 作家名:森本晃次