滅亡に追いやる夢
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年3月時点のものです。
女が見ていた
最近の湿気の多さには閉口してしまいたくなるくらいで、夜ともなると、歩いているだけで、汗が出てくるくらいであった。
その日も気持ち悪さからか、呼吸困難になるくらいとなり、歩きながら、吐き気を催していたのであった。
「はぁはぁ」
と声を当てながら、バスを降りてから帰宅の途についていたところであったが、
「今日は雨が降りそうだな」
ということは感じてはいたが、夜の静寂が襲ってきた午後八時になっても、その雨は降ってはこなかった。
「明日になるのかな?」
と感じたが、明日といっても、午前0時を回れば、
「明日」
になるのだから、もう数時間のことである。
そのくらいの時間には、寝ているかも知れないと思ったので、少なくとも、目が覚めた頃は、雨の音が聞こえてくるだろうと思うのだった。
「どうして、雨が降るのが分かるのか?」
というと、
「雨が降る時は、湿気だけではなく、まるで石のような臭いがしてくるからだ」
ということであった。
石の臭いというのは、元々、雨が降らない間に、地表にたまったホコリが、生暖かい湿気によって、蒸気となって舞い上がってくる時、まるで石のような臭いがしてくるからではないだろうか?
子供の頃から、そんな風に思っていたのは、
「今川直実」
という青年で、年齢は30歳になっていて、現場での第一線の仕事では、やっと一人前になったというところで、最近は精神的に余裕が出てきたのか、
「彼女がほしいな」
ということを考え始めていた。
とは言っても、
「すぐに結婚したい」
などというわけではない。
結婚するには、それだけの経済力もいるだろうし、今の時代は、
「結婚だけが、人生ではない」
という時代でもある。
昔であれば、
「学校を卒業すれば、就職しなければいけない」
ということと同じように、
「結婚適齢期になれば、結婚して所帯と持たなければいけない」
などという迷信めいたことは、今ではないのだ。
むしろ、
「結婚しても、離婚してしまうことを思えば、一人でいる方がいい」
という時代ではないだるうか?
「結婚する人よりも、離婚する人の方が多い」
というくらいなので、
「結婚などしたくない」
と思うのも当たり前というものであった。
だから、
「彼女を作っても、すぐに結婚を口にしない女がいい」
と思っている。
だが、今の時代は、女の方も、
「すぐに結婚したい」
などと考える人もいない。
どれを思うと、別に結婚に対して執着することもないので、年齢的にもそんなに年が言っているというわけでもない。ゆっくり探せばいいというだけのことであった。
最初に、
「彼女がほしい」
と思って居から、
「ゆっくり探せばいい」
という風に考えられるようになるまで、実際には、1カ月ほどくらいであったが、感覚的には、数か月くらいかかったかのように思えた。
だが、精神的に余裕のようなものが出てくると。今度は、そこから、半年ほどが経っていたにも関わらず、感覚的には、まだ1カ月ほどくらいしか経っていないかのように思うのは、どういうことであろうか?
そもそも、人間の感覚というのは、実際の時間と、その差が結構あるということは、往々にしてあるものだった。
それを、
「錯覚」
というのだとすれば、錯覚というのは、
「想像以上に結構あることではないだろうか?」
と感じるのだった。
まるで、
「夢と現実の違い」
といってもいいだろう。
しかも、眠っている時に見る夢というのは、
「目が覚めるとまったく覚えていない」
ということが当たり前のように感じられるのであった。
特に夢を見るというのは、
「遠い過去」
を見ることが多いという感覚からか、
「過去に戻るまでに時間がかかるせいか。夢の世界を見ている感覚に比べ、実際の時間は、そんなにかかっていない」
ということは、意識していないとしても、何度も見ていれば感じるということではないだろうか?
「夢というのは、どんなに長い時間見た」
と目が覚めてからも感じていたとしても、実際には、
「目が覚める直前くらいに見た数秒くらいだ」
というような話を聞かされたことがあった。
つまり、
「眠りに就いて、夢の世界に誘われるまでに、かなりの時間が掛かり、やっと夢に入ったかと思うと、すでに、目を覚まそうとしている時間に差し掛かっている」
ということになるのだ。
それを考えると、
「夢というのが、目が覚めるにしたがって、忘れてしまう」
という感覚であったり、
「あれだけ時系列的に長く、遠い過去から今までの夢を見ていた」
と思ったとしても、
「目が覚めてしまうと、あっという間だったような気がする」
と感じるのを、錯覚でしかないと思わせるのが、
「夢と現実の狭間だ」
と思わせるのだとすれば、
「夢というものこそ、タイムマシンというものの発想の原点ではないか?」
と感じさせるのだった。
だが、夢というものに、
「時系列という感覚がない」
というのと同じで、
「夢を見ている時、起きている時のような感覚はないのではないか?」
と考えるのだ。
というのは、
「色を感じる」
「匂いを感じる」
などという、
「五感というものを本当に感じているのか?」
と感じさせられるのであった。
「それこそが、夢の世界と現実との狭間であり、結界のようなものだ」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「夢というのは、たまにしか見ないものだ」
と思っていたが、
「本当は、毎日見ていて、ただ覚えていないだけではないか?」
ということを感じさせるのであった。
そう思うきっかけになった時期が、
「確かに自分の中のどこかにあった」
という感覚だったのだが、それがいつのことだったのかということを、思い出すことはできなかった。
それだけ、夢の世界というのが曖昧な感覚であり、
「覚えていること」
というのと、
「忘れてしまった」
というのを二つ合わせると、
「夢のすべてに本当になるのだろうか?」
と、考えさせられるのであった。
さらに、
「時系列というものが、本当に夢の中で、ちゃんと機能しているのか?」
と考えさせられるのであった。
「小学生の頃の方が、高校時代に比べて、ごく最近のことのように思い出される」
と、大人になって感じ始めた。
それは、
女が見ていた
最近の湿気の多さには閉口してしまいたくなるくらいで、夜ともなると、歩いているだけで、汗が出てくるくらいであった。
その日も気持ち悪さからか、呼吸困難になるくらいとなり、歩きながら、吐き気を催していたのであった。
「はぁはぁ」
と声を当てながら、バスを降りてから帰宅の途についていたところであったが、
「今日は雨が降りそうだな」
ということは感じてはいたが、夜の静寂が襲ってきた午後八時になっても、その雨は降ってはこなかった。
「明日になるのかな?」
と感じたが、明日といっても、午前0時を回れば、
「明日」
になるのだから、もう数時間のことである。
そのくらいの時間には、寝ているかも知れないと思ったので、少なくとも、目が覚めた頃は、雨の音が聞こえてくるだろうと思うのだった。
「どうして、雨が降るのが分かるのか?」
というと、
「雨が降る時は、湿気だけではなく、まるで石のような臭いがしてくるからだ」
ということであった。
石の臭いというのは、元々、雨が降らない間に、地表にたまったホコリが、生暖かい湿気によって、蒸気となって舞い上がってくる時、まるで石のような臭いがしてくるからではないだろうか?
子供の頃から、そんな風に思っていたのは、
「今川直実」
という青年で、年齢は30歳になっていて、現場での第一線の仕事では、やっと一人前になったというところで、最近は精神的に余裕が出てきたのか、
「彼女がほしいな」
ということを考え始めていた。
とは言っても、
「すぐに結婚したい」
などというわけではない。
結婚するには、それだけの経済力もいるだろうし、今の時代は、
「結婚だけが、人生ではない」
という時代でもある。
昔であれば、
「学校を卒業すれば、就職しなければいけない」
ということと同じように、
「結婚適齢期になれば、結婚して所帯と持たなければいけない」
などという迷信めいたことは、今ではないのだ。
むしろ、
「結婚しても、離婚してしまうことを思えば、一人でいる方がいい」
という時代ではないだるうか?
「結婚する人よりも、離婚する人の方が多い」
というくらいなので、
「結婚などしたくない」
と思うのも当たり前というものであった。
だから、
「彼女を作っても、すぐに結婚を口にしない女がいい」
と思っている。
だが、今の時代は、女の方も、
「すぐに結婚したい」
などと考える人もいない。
どれを思うと、別に結婚に対して執着することもないので、年齢的にもそんなに年が言っているというわけでもない。ゆっくり探せばいいというだけのことであった。
最初に、
「彼女がほしい」
と思って居から、
「ゆっくり探せばいい」
という風に考えられるようになるまで、実際には、1カ月ほどくらいであったが、感覚的には、数か月くらいかかったかのように思えた。
だが、精神的に余裕のようなものが出てくると。今度は、そこから、半年ほどが経っていたにも関わらず、感覚的には、まだ1カ月ほどくらいしか経っていないかのように思うのは、どういうことであろうか?
そもそも、人間の感覚というのは、実際の時間と、その差が結構あるということは、往々にしてあるものだった。
それを、
「錯覚」
というのだとすれば、錯覚というのは、
「想像以上に結構あることではないだろうか?」
と感じるのだった。
まるで、
「夢と現実の違い」
といってもいいだろう。
しかも、眠っている時に見る夢というのは、
「目が覚めるとまったく覚えていない」
ということが当たり前のように感じられるのであった。
特に夢を見るというのは、
「遠い過去」
を見ることが多いという感覚からか、
「過去に戻るまでに時間がかかるせいか。夢の世界を見ている感覚に比べ、実際の時間は、そんなにかかっていない」
ということは、意識していないとしても、何度も見ていれば感じるということではないだろうか?
「夢というのは、どんなに長い時間見た」
と目が覚めてからも感じていたとしても、実際には、
「目が覚める直前くらいに見た数秒くらいだ」
というような話を聞かされたことがあった。
つまり、
「眠りに就いて、夢の世界に誘われるまでに、かなりの時間が掛かり、やっと夢に入ったかと思うと、すでに、目を覚まそうとしている時間に差し掛かっている」
ということになるのだ。
それを考えると、
「夢というのが、目が覚めるにしたがって、忘れてしまう」
という感覚であったり、
「あれだけ時系列的に長く、遠い過去から今までの夢を見ていた」
と思ったとしても、
「目が覚めてしまうと、あっという間だったような気がする」
と感じるのを、錯覚でしかないと思わせるのが、
「夢と現実の狭間だ」
と思わせるのだとすれば、
「夢というものこそ、タイムマシンというものの発想の原点ではないか?」
と感じさせるのだった。
だが、夢というものに、
「時系列という感覚がない」
というのと同じで、
「夢を見ている時、起きている時のような感覚はないのではないか?」
と考えるのだ。
というのは、
「色を感じる」
「匂いを感じる」
などという、
「五感というものを本当に感じているのか?」
と感じさせられるのであった。
「それこそが、夢の世界と現実との狭間であり、結界のようなものだ」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「夢というのは、たまにしか見ないものだ」
と思っていたが、
「本当は、毎日見ていて、ただ覚えていないだけではないか?」
ということを感じさせるのであった。
そう思うきっかけになった時期が、
「確かに自分の中のどこかにあった」
という感覚だったのだが、それがいつのことだったのかということを、思い出すことはできなかった。
それだけ、夢の世界というのが曖昧な感覚であり、
「覚えていること」
というのと、
「忘れてしまった」
というのを二つ合わせると、
「夢のすべてに本当になるのだろうか?」
と、考えさせられるのであった。
さらに、
「時系列というものが、本当に夢の中で、ちゃんと機能しているのか?」
と考えさせられるのであった。
「小学生の頃の方が、高校時代に比べて、ごく最近のことのように思い出される」
と、大人になって感じ始めた。
それは、