滅亡に追いやる夢
ということで理解すれば、その後のすべての理屈が、
「公式である」
と思えるからだった。
そして、
「整数の公式」
と呼ばれる部分は、
「小学生の頭」
であっても、
「自分でその公式を理解できる」
ということになるのであった。
しかし、中学になって。算数から、数学に変わると、今度は、
「最初に公式を習い、その公式に沿って、いかに回答できるか?」
というのが、
「学力の基本」
ということになったのだ。
算数であれば、
「どんな解き方でもよく、ただ、答えが合っているだけではなく、その答えを導き出すための理屈というものが間違っていない」
というのが、テストにおいての採点基準であった。
しかし、数学というのは、その解答プロセスは、基本的な公式が決まっていて、
「その公式通りに回答できているか?」
というのが、問題なのであった。
そんな数学というものを、今川は、
「理解できない」
と思い、まるで小学一年生の時に、
「1+1=2」
が理解できないという、
「算数の基本」
が、
「数学の基本」
というものに変わったということだったのだ。
だから、
「数学も、最初から挫折した」
といってもいいのだが、これも、
「二年生のある時、急に分かるようになった」
ということであった。
そのきっかけがどこからくるのか、分かるわけではなかったのだ。
中学からの理科などは、
「数学が理解できないと、ついていけない」
というものであった。
それでも、
「二年生で、何とか理解できるようになると、理科も、理解できる」
という自己暗示からか、理科の成績も上がっていき、それまで、ほぼ無視していた先生が、手のひらを返したかのように、いろいろ話しかけてくるようになった。
「今の成績だったら、進学校だって十分に入れるぞ」
というではないか。
まだ二年生の頃は、受験というものを、そこまで真剣に考えることはなかった。
そもそも、今川は、
「切羽詰まらないと、何かをしようとは思わない」
というもので、小学生の頃の夏休みの宿題も、
「最後のギリギリから始めて、何とか終わらせた」
という記憶が大きかった。
「宿題をしたくない」
というわけではなく、
「どうしても、やる気が起きない」
というものだったのだ。
確かに、
「宿題をしないといけない」
という意識は、夏休み前からあったのだが、実際に、一学期の最後の授業で、宿題を出されたその時には、
「頭の中は、夏休み一色」
ということで、
「しないといけない」
という考えとは裏腹に、一気に、
「やる気が失せていた」
ということであった。
この話をすると、
「俺も」
ということで、皆が賛同してくれる。
しかし、親や先生は、
「分かっていることなのだから、どうして、最初にやってしまおうと思わないのだろうか?」
と考えるようで、子供たちの行動に、頭をかしげるということであったが、
「親や先生だって、子供の頃は、宿題を最後に回していたのではないか?」
と思える。
逆に、
「子供の頃、自分ができなかったことなので、息子にもできない」
という理屈は分かっているのだが、そこに、
「自分とは違う」
という逆の意味での願望があるから、
「できない」
ということを棚に上げて、
「棚に上げる」
ということが、自分を正当化するということになるのだろうと思うのであった。
「大人になったら。自分の子供時代のことを忘れずに、自分と同じような行動をすれば、怒ったりなんかしない」
と思っていたのだが、それが、
「親や先生」
という、
「指導的な立場」
になったら、
「子供にやかましくは言わないだろう」
と思うはずなのに、
「どうして、大人になると、子供の頃に思ったことを忘れてしまうのだろう?」
と考えるのだった。
「子供と大人の違い」
というのは、どこにあるというのだろう?
中学時代くらいに、
「反抗期」
というものであったり、
「成長期」
というものがあり、目に見えるところで、
「肉体的な変化」
というものがあり、目に見えないところで、
「精神的な変化」
というものがあるのだ。
肉体的なものと精神的なものと、どっちが先に来るのかというのは、個人差ではないだろうか。
ただ、
「絶対にやってくるものであり、やってこなければ、大人になれないということであり、そんな例が今までには聞いたことがない」
これは、人間に限ったことではなく、動物においても言えることだ。
動物に関しては、もっとハッキリといえることであり、その、
「変化」
というものは、
「本能のなせるわざ」
といってもいいかも知れない。
人間と同じように、動物には、
「判断する力がある」
人間の吐合は、
「頭で考えることと、育ってきた環境などによって、判断ができる」
といえるが、動物は、
「頭で考えることができない分、生まれつき、あるいは、育ってきた環境から、判断できる」
といってもいいだろう。
高校に入学すると、それまで、
「トップクラスの成績だった」
というものが、
「クラスで、中の下か、下の上か?」
というくらいに落ち込んでしまった。
そうなると、
「自分が、学校の勉強についていけていない」
ということを理解できるのだが、
「それがどうしてなのか?」
ということが分からないのであった。
しかし、それは当たり前のことであり、
「今まで中学時代のレベルと、高校に入ってからのレベルとで、そもそもが違っている」
といえるだろう。
中学時代までは、
「選別されているわけではない」
ということなので、
「成績のいい人も悪い人も、ピンからキリまである」
ということになるのだが、高校では、
「レベルに合わせた高校を選択する」
ということになり、学校ごとに、
「合格率、合格レベル」
というものが、存在するということになる。
それを、受験前は、
「差別化だ」
という感覚で見ていて、
「何か嫌だな」
と思っていたが、それこそ、
「生徒を守るため」
と考えれば、無理もないことであった。
つまりは、
「高校生になると義務教育ではない」
ということで、
「勉強したくなければする必要はない」
ということであるので、
「勉強をしたいという人間だけが通うところだ」
といってしかるべきではないだろうか。
ただ、今までの学歴社会からいけば、
「高校くらい出ていないと、格好がつかない」
ということと、
「雇い手がない」
ということで、
「高校入試は必須」
ということになるだろう。
そんな風潮があるからか。
「入試があるといっても、高校も、中学の延長」
というくらいに考えている人も多いかも知れない。
確かに、
「中学までに比べれば、勉強の内容は、かなり専門的になっている」
ということで、普通なら、
「ついていくのがやっと」
という人がほとんどかも知れない。
いくら中学時代に、トップクラスだったといっても、
「五分五分での入学」
ということになれば、試験に不合格だった人もいるわけなので、
「上位50%の人が、合格」